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元治1年8月12日(1864年9月12日)
【神戸】軍艦奉行勝海舟、軍艦で姫島に赴いて四国艦隊に停戦交渉を行うようにとの幕命を受け取る。
【京】内大臣近衛忠房、薩摩藩島津久光父子に書を認め、帰国予定の小松帯刀への一橋慶喜の「厚依頼」を述べ
帯刀の早期再上京を再三申し入れる。

☆京都のお天気:霽 (『嵯峨実愛日記』)

>四国艦隊下関砲撃
■幕府側の動き
【神戸】元治1年8月12日夕、京都から、軍艦奉行勝海舟のもとに、軍艦で姫島に赴いて四国艦隊い停戦交渉を行うようにとの一橋慶喜の命が届き、勝は「一死を以て」説得すると回答しました。

〇勝海舟の日記(8月12日条)のてきとう訳
・今夕、京都から(大目付)永井主水(=大目付永井尚志)・戸川鉾三郎(目付)から来状。その内容は、豊後姫島に、英・仏・蘭の軍艦17,18隻が碇泊し、長州を攻撃しようとしている。長州追討令が布告された今、外国が先んじて戦争を始めれば、「甚御不都合の事共」であり、速やかに軍艦で行って説得し、暫時戦争を止めよというもので、橋公(=一橋慶喜)の御沙汰であるという。
・この件についは、既に長崎で応接、また横浜でも彼等に接したが、なかなか自分で止められるところではなかった。しかも、既に江戸にて参政が御説得になったのに、それを用いず、終に彼地(=姫島)に集会。固辞しても時を消すのみであり、「唯一死を以て彼に説かむと決答」した。

<ヒロ>
慶喜の命は、前8月11日に出された外国艦退去説得の朝命(8/11)を受けたものになると思います。(実際は、8月5日に開戦、8日から休戦・和平交渉が続けられているので、勝の姫島行は徒労に終ります)。なお、11日には、大坂城代から、守護職・所司代・老中に下関開戦の報が届けられていますが、永井・戸川が書簡を認めた際には、未だその情報をキャッチしてなかったようです。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p164(2018/4/30)
関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃

■一橋慶喜と小松帯刀
【京】元治1年8月12日、内大臣近衛忠房は、薩摩藩島津久光父子に対し、京都の近況(長州退去説得の朝命)を知らせるとともに、帰国予定の小松帯刀は、朝廷でも頼りにしており、慶喜の信頼も厚いため、速やかな再上京をくれぐれも望むとの書簡を認めました。

〇忠房の書簡のてきとう要約(段落分けも管理人)
・京都は少しは「静謐」になったが、今後どうなるかと深く心配している。
・防長への異船渡来(=四国艦隊下関襲来)も深く心配している。方今、夷狄と戦争になっては「追討之折柄内外の混乱」になるし、「防長モ皇国之地ニ候ヘハ夷人ニ討タセテハ不容易皇国之大恥」この上ないので、幕府から夷人を説得するよう仰せ出された(こちら)。
・小松帯刀が、帰国すると申し出て、この上なく当惑している。国許の事情もあるので是非一度帰国したいというので、いたしかたないが、国許の用を速やかに済ませて折り返し帰京するようにしたい。方今、帯刀の滞京がなくては大いに差し支えるため、厚く御含みになり、すぐに帰京になるよう頼み入る。
・(追伸)以前から、殿下(=二条関白)よりもよろしく申し入れるよう命ぜられている。小松がの帰国については前殿下(=近衛忠煕)も深く懸念されており、本文の通り、前殿下からも申し入れたいとのこと。くれぐれも帯刀は、5,6日で早々に出立・帰国するよう厚く頼み入る。さもなくば「心痛無限」である。

〇別紙
・別紙で申し入れた帯刀帰国の件には困っている。「近頃ニテハ一橋より帯刀厚依頼之様子ニテ彼是相談等モ在之候事」なので「帯刀在京ニ候得ハ総体之都合ニモ宜敷」、是非急速上京を申し付けるよう頼み入る。

<ヒロ>
小松帯刀は、13日に帰国する島津図書(久治)に同行予定でした。(征長の準備?)

忠房は、本文、追伸、さらに別紙と、三度にわたって小松の速やかな再上京を申し入れており、いかに小松の存在が大きいものだったかがうかがいしれますよね。また忠房の目からみても、慶喜にも「厚依頼」されていたんですね・・・。

参考:8月12日付島津中将殿・薩摩少将殿宛忠房書簡『島津久光公実紀』ニp281-283(2018/4/30)

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