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元治1年8月13日(1864年9月13日)
【江】幕府、征長総督徳川慶勝・副将松平茂昭に、長州征討部署を示して急遽出陣を命ず
【越】越前藩、征長戦出陣の下準備に中根雪江を上京させる

☆京都のお天気:晴(『嵯峨実愛日記』)

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【江】元治1年8月13日、幕府は、30余藩の長州征討部署を定め、征長総督徳川慶勝・副将松平茂昭に、当月中の出陣を命じました。諸藩にも部署・出陣が命じられ、さらに、在京老中稲葉正邦(淀藩主)に長州藩出張・出兵を命じられました。

〇慶勝へ台命(将軍の命を伝える)書付
「松平大膳大夫追討被仰付候ニ付、攻口之割合別紙之通被仰出候間、其趣御心得可被在之候。尤島付き出陣之心得ニ而、出張日限之儀ハ前大納言殿へ可相伺旨、別紙之面々へ相達候間、万事御指揮被在之被仰出之趣、厚御心得被成候様ニ与之御事ニ候。此段可申達旨、上意候」

〇征長部署
・陸路:芸州→岩国→山口
芸州(広島)・備中・松代・福山(一番手)、広島新田藩・美作藩・庭瀬藩・山崎藩(一番手応援)、備前龍野(二番手)
・陸路:石州→萩→山口
因幡浜田・津和野(一番手)、津山・松江(二番手)、丸岡・広瀬・母里(二番手応援)
・海路:四国→徳山→山口
阿波・伊予(一番手)、讃岐・宇和島(二番手)、今治(二番手応援)
・海路:下関→山口
肥後・小倉・中津・千東・安志(一番手)、筑前・佐賀(二番手)、唐津(二番手応援)
・海路:萩→山口
薩摩(一番手)、島原(一番手応援)、久留米・柳河(二番手)

<ヒロ>
えっと・・・8月2日には将軍自らが進発すると宣言してませんでしたっけ?(こちら

また、この日布告された部署は、7月23日に会津藩に伝達された在京幕府の征長部署案と同じではなく、出兵を命じられた藩も、同月24日に京都にて征長を命じられた21藩(青字)より多いです。『徳川慶喜公伝』によれば、京都の幕命と祖語のあるところは江戸の幕命を優先せよとの達しつきだったそうです。

参考:「督府征長紀事」「幕府御沙汰書」『稿本』(綱要DB 8月13日条)、『維新史』四p124-125、『徳川慶喜公伝』3(2018/4/23)

【越】元治1年8月13日、征長副将・越前藩主松平茂昭は、出陣の事前準備のため、中根雪江を上京させました。

幕府は、8月4日、越前藩主松平茂昭に対し、征長副将とするので、総督・紀伊藩主徳川茂承の指揮を受けるようにとの内容の幕命を下しており(8/4)、その奉書が10日に福井に届いていました。越前藩では、「武門之冥加・当家之面目」と茂昭の近々(19日)の出陣を決定し、その事前準備として、中根雪絵を京都・大坂に派遣し、在京幕府首脳(禁裏守衛総督一橋慶喜・在京老中)に軍事に関する廟議を確認し、紀州藩等の討手の諸藩と協議し、兵器・兵糧の運搬の方法を調整させることにしました。

〇同日付一橋慶喜宛の藩主松平茂昭書簡のてきとう要約
今般、江戸表老中より、紀伊殿へ征長総督・越前守へ副将を命じる奉書が届き、速やかに御請けした。「武門之冥加・当家之面目」で有難いが、重任のため「昼夜苦心配労」している。自分も、征長の成功を速やかに奏し、「徳川御家之為御武威益以海内ニ輝」くようにしたく、「軍事取調中」である。そこで、「何角之用向」のため(中根雪江に)上京を申し付けた。着京後、尊館へ相談にうかがわせるので、腹蔵のない指揮を願いたい。また、(天皇への)拝謁の命がでるよう取り計らってほしい。(以降、禁門の変後の加賀藩処分に対するのとりなし依頼が長々と続く)

<ヒロ>
越前藩には、まだ、7日に紀州藩主徳川茂承が征長総督を更迭され、代って徳川慶勝が任命されたことが届いていませんでした。

参考:『続再夢紀事』三p257-262(2018/4/23)
関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1 第一次幕長戦

8月13日のその他の主な動き
【江】幕府、寄合小栗忠順(上野介)を勘定奉行に任命(綱要)

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