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☆京都のお天気 陰雨涼(『嵯峨実愛日記』) >禁門の変の賞罰 ■親長州公卿の処分 【京】元治1年8月14日、朝廷は、前関白鷹司輔煕・大納言鷹司輔政の参朝停止を解きました。(綱要) 参考:『維新史』四p124-125(2018/4/25) 関連:テーマ別元治1■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変 >四国艦隊下関襲来 ■長州藩の動き 【長州】元治1年8月14日、長州藩は、英国艦上で、5か条から成る講和条約を結びました。 (条約書のてきとう訳) 一、本日以降、外国船の下関通行の際は、懇切に取り扱う 一、石炭・食物・薪水その他船中の必需品を売り渡す 一、風波の難にあったときは障害なく上陸させる 一、新規の砲台建設、既存の砲台の修復、大砲の設置をしない 一、先に下関から外国船に砲撃をしかけたのに(四国艦隊が下関を)焼き払わなかった償金の支払い、軍の雑費の支払いの2か条を、江戸において欽差より決定することを承知する 8月5日から四国艦隊の攻撃を受けた長州藩は、砲台のほとんどを破壊・占拠され、8日に講和を申し入れ、和平交渉を続けていました。講和使節は正使宍戸刑馬(高杉晋作の偽名)、副使杉徳輔・渡辺内蔵太、通訳伊藤俊輔・井上聞多でした。 <ヒロ> 下関を焼き払わなかった償金・・・って、どうです?! 高杉は、元治1年6月から脱藩の罪で座敷牢で謹慎を命じられていましたが、8月4日に山口に呼び戻され、下関で交戦中の6日には政務役に抜擢され、藩主代理として講和交渉に臨むました。高杉の身分は家老宍戸備前の養子で宍戸刑馬を名乗っていまた。英国の通訳だったアーネストサトウは、講和交渉の初日の様子を「使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案を何の反対もなく承知してしまった。それには大いに伊藤(俊輔。通訳を務めていた)の影響があったようだ」と回想しています。 参考:『維新史』四p578、『一外交官の見た明治維新』上p142(2018/4/25) ■在京幕府の動き 【姫島】元治1年8月14日、在京幕府首脳から四国艦隊との停戦交渉を命じられた軍艦奉行勝海舟が、海路姫島に到着しましたが、既に艦隊はおらず、5日に下関で開戦していたことを知りました。(しかし、講和のことまでは知りえませんでした。勝は、翌15日、姫島を出航します) 参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p164(2018/4/30) 関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃 その他 ・岩国領主吉川経は、家臣桂九郎兵衛を筑前藩に派遣し、宗藩主毛利慶親父子救解の斡旋を、藩主黒田斉溥父子に依頼。 |
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