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元治1年8月15日(1864年9月15日)
【越前】松平春嶽、書を禁裏守衛総督一橋慶喜及老中水野忠精に送り、
将軍が上洛し、諸侯を闕下に集めて開鎖の議を決し国是の根本を確立すべきと建議

【京】中川宮、近衛忠煕関白から、会津藩主松平容保の守護職辞任願いを却下したときく。

☆京都のお天気 雨下(『朝彦親王日記』)

>外国処置
■将軍上洛・諸侯集合による国是決定by春嶽


【京】元治1年8月15日、前越前藩主松平春嶽は、書を禁裏守衛総督一橋慶喜及江戸の首席老中水野忠精に認め、将軍が上洛して諸侯を闕下に集めて開鎖の議を決し、国是の根本を確立すべきだと建議しました。

(意見書のポイント(てきとう訳))
今般の京師変動では九門内での交戦があり、玉座を驚かせ奉ったことに、日夜、痛憤をいだいている。
御征討の大号令を既に発し、長州の君臣が未だ降伏ということにもならず、外国伐長(=下関攻撃)の期限は次第に迫り、横浜鎖港の件も御成功に到りかねているだけではなく、関東では浮浪輩がほとんど流賊の勢を醸す(=天狗諸生の乱)など、内外の困厄・・・が甚だしい。
最近の状況は、(春嶽が総裁職・朝議参与として滞京した)昨冬・今春より一層の患難が迫り、公(=慶喜)の御心痛も深く、自分もさらに不安な次第である。・・・この一大変動をすべて鎮定し、人心を元のように安着し、征長も御定算通りにすめば、自ら再び因循・旧套に復し、禍根はますますもって国難救うべからずの世態になり、天下の人心はさらに惑乱し、上下の議論は頻りに葛藤を生じるのは必然である。
畢竟、国内がこのように紛乱に及んだのも開鎖の両途が明確ではなく、人心が両端に分かれたことに起因するので、まさに、今、「天下之群牧」を京都へ集めた上、闕下において開鎖の大議論を御一定される時である。その後、開、鎖なりの御国是により、とにかく皇国万安の道が立ち、朝廷・将軍家・万民の安堵を得るような御政務を、「天下公共之道理」をもって御確定していただきたと企願している。
恐れながら、近年までは、幕府の御威光で天下も治まっていたが、もはや従前のように御威光をもって御鎮静される思召では恐らくは天下の人心が「誠服」することはないかと存じる。今となっては、「天地自然之道理」に基づかれ、「天下之万民之心を取って公共之御処置」をされねば、内外の「千変万道」が止まぬ時、不測の大患を招くやもしれない。
(将軍が)「早々御上洛」の上、今後、「開鎖之御国是を御一定」にされ、「万民安堵之大道を諸侯へ御会議」の上、「天前(で)御確定」されれば、天下の人心も始めて定まるだろう。
特に、夷船が摂海へ渡来するとの風聞もあるので、一刻も早く開鎖の両途をどちらにでも御一定されることが何よりの御急務と存じる。この旨は、江戸表閣老へも建白に及ぶので、御熟考され、早々に実行されることを願いあげる。

<ヒロ>
いつ京都・江戸に届いたのかはよくわかりませんが、これはもうかねてからの春嶽の論なので、慶喜・老中にとっても「またか・・・」という感じだったかも。

なお、越前藩では、征長副将に任ぜられた茂昭の近々(19日)の出陣を決定しており、この15日、中根雪江が、その事前準備として、慶喜や在京老中に軍事に関する廟議を確認し、紀州藩等の討手の諸藩と協議などを行うために入京しました。

参考:『続再夢紀事』三p262-268(2018/6/9)
関連:テーマ別「文久2」■国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏「文久3]■越前藩の挙藩上京計画(越前・薩摩提携による政変計画)
>禁門の変後の会津藩
■守護職辞任問題
【京】元治1年8月15日、中川宮(当時尹宮)は、二条関白より、会津藩主松平容保が守護職辞職を願い出たが却下したとききました。

辞職を願い出た理由は、7月18日夕方(禁門の変前夕)から、有栖川宮等が、会津を「賊」として早く九門外に追放するよう主張して「朝敵」を助けたことが、「実々々不済義」だったからだとか。(自分が九門内にいたことがきっかけになったので、辞職っていうことでしょうか?)

参考:『朝彦親王日記』一p30(2018/5/8)
関連:テーマ別元治1■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変

>四国艦隊下関襲来
【姫島】元治1年8月15日、四国艦隊下関攻撃停止の説得に間に合わなかった勝海舟は、姫島を出帆しました。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p164(2018/4/30)
関連:テーマ別元治1■四国艦隊下関砲撃

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