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☆京都のお天気:陰時々雨下 (『嵯峨実愛日記』) ※越前藩、当惑の一日です。 >第一次幕長戦へ ■征長総督問題 【京】元治1年8月16日、紀州藩木村條右衛門は、越前藩士中根雪江に対し、藩主徳川茂承が征長総督に任命さてたことを知らないと述べました。 越前藩では、征長副将に任ぜられた茂昭の近々(19日)の出陣を決定しており、中根は、前15日、その事前準備として、慶喜や在京老中に軍事に関する廟議を確認し、紀州藩等の討手の諸藩と協議などを行うために入京しました。ところが、16日、江戸より届いた7日付の新たな達書(こちら)には、征長総督が前尾張藩主徳川慶勝になったので慶勝の指示を受けよと記されていました。 当惑した中根が紀州藩士木村條右衛門を訪ねて、確認したところ、木村は、紀州藩京都藩邸では総督に任命された事自体承知していないと答えたそうです。 <ヒロ> 紀州の京都藩邸が、殿様が4日に総督を命じられたことを、16日になっても知らなかったなんて、ありえなくないです?中根じゃなくても驚きです。一体何が真なのか、中根は、次に一橋用人を訪ねました。 【京】元治1年8月16日、在京老中稲葉正邦は、上意により、征長総督徳川慶勝・副将松平茂昭の出陣時に長州出張を命じられたことを、会津藩等に報じさせました。(当然、慶喜や所司代にも同様の書状が差し出されたと思います) 〇書状のポイントのてきとう訳 ・「尾張前大納言様総督・松平越前守様副将として御出張ニ付」、美濃守様は長州表へ御出張になり、「格別御忠勤」を尽くし「速ニ勦滅(そうめつ)」するよう処置すべしとの上意の旨を奉書を以て仰せ出された。このことを、各様へ拙者より御意を得るよう(正邦から)仰せつけられたものである。 <ヒロ> 13日に出された奉書がこの日に正邦のもとに届いたようです。さすがに三日切なのですね。でも、総督の交代については別便があるわけでなく、奉書で知ったという感じなのでしょうか。あるいは総督交替も3日切で既に知らされていたのでしょうか?? 参考:8月16日付一瀬要人様・御詰合中様宛川又右門書簡『会津藩庁記録』五p542-543(2018/5/3 【京】元治1年8月16日、一橋用人黒川嘉兵衛は、越前藩士中根雪江に対し、征長総督・副将人事は所司代から慶喜に伝わったこと、征長総督は前尾張藩主徳川慶勝が「真」だと判断していること、さらに諸侯への追討令を誰が計画したかについては「一切心得」ないことなどを述べました。 やりとりは以下の通り(てきとう訳)
※2:総督交替は、8月7日に江戸で出された幕命(こちら)。また、稲葉正邦に出兵が命じられたのは13日(こちら)、その奉書が正邦のもとに届いたのがこの日(16日)なので、7日に言上したというのは黒川の記憶違い/言い間違い(あるいは中根の聞き違い)。 <ヒロ> 征長副将を命じられた越前藩が、総督人事の情報を、自ら探し回らないとつきとめられないなんて、そりゃあ、中根も当惑します。中根の上京目的の一つは征長軍略に廟議を確認することでしたが、そちらの目的もこの日は果たせませんでした。(こんな重要な情報が慶喜に直接届けられないなんて、江戸の幕府から蚊帳の外におかれているのにも驚いたのでは・・・)。 参考:『続再夢紀事』三p268-269(2018/5/1) 【京】元治1年8月16日、所司代(桑名藩)は、越前藩留守居役雨森儀右衛門の問い合わせに対し、総督が上京するまでの間、征長の指図は老中稲葉正邦から受けるよう命じました。(枢密備忘) <ヒロ> つまり、「差添」は総督不在中は代理を務めるものであり、副将より上の地位ってことなんでしょうか?? 参考:「征長出陣紀」『大日本史料稿本』(綱要DB)(2018/5/1) 関連:テーマ別元治1 第一次幕長戦へ(1) 【越前】元治1年8月16日、征長総督交替の達書(7日付)が福井に届きました。 越前藩では、茂昭の上京を19日と定め、15日に藩内に布告していましたが、総督交替の知らせを受けて、出発を一時見合わせ、徳川慶勝に使者を派遣して軍務を協議させることにしました。 参考:『続再夢紀事』三p287(2018/5/4) >禁門の変後の会津藩 ■守護職辞任&黒谷本陣引き取り問題 【京】元治1年8月16日、会津藩家老神保内蔵之助・中老一瀬要人が中川宮(当時尹宮)を訪ね、藩主松平容保の守護職辞職と(御所凝花洞から)黒谷本陣への引き取りを願い出ました。 中川宮は、辞職の件については、前日、二条関白から聞いていた通りだったので(こちら)、却下しましたが、黒谷本陣への引き取りは、よいだろうと返答したそうです。 参考:『朝彦親王日記』一p31(2018/5/8) 【天狗・諸生】払暁、水戸藩主徳川慶篤名代松平頼徳の麾下武田耕雲斎等、那珂湊の市川派の兵を襲撃。藤田小四郎等も、藩要路を退けるため、耕雲斎らを応援。市川派の兵、水戸に潰走。 |
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