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元治1年8月30日(1864年9月30日)

【京】朝廷、征長総督の速やかな決定・進発、
徳川慶勝の就任が遷延すれば副将以下諸藩を進発させるよう命じる
【京】松平容保・松平定敬・稲葉正邦、連署して、江戸老中に朝命を伝え、征長の速やかな実行を促す。
【江】老中阿部正外、海路上京へ

☆京都のお天気:晴陰 (『嵯峨実愛日記』)

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【京】元治1年8月30日、朝廷は、幕府に対し、征長総督を速やかに決定・進発し、徳川慶勝の就任が遷延するのであれば、副将以下諸藩を進撃させよと、征長を督促ました。

〇守護職松平容保、所司代松平定敬、老中稲葉正邦への伝奏からの達書(句読点by管理人)
「防長追討総督尾張大納言へ被申付候へ共、今以、御受無之哉に相聞へ、右様延々及候ては不都合且混雑の義出来も難計候間、最早御請上京等無之義に候は々、先、副将以下進発早追討可遣の旨、被 仰出候に付、早々申入候。猶、被申談、可然勘考有之候様存候
   八月晦日」
※一橋慶喜には別途、申し入れられています。

<ヒロ>
これより先、8月11日、朝廷は、幕府に対し、征長に先立ち外国艦に下関を退去させるよう命じていました(こちら)。その後、26日に、長州に勝利した連合艦隊の一部が横浜への帰港途中、摂海に進入して大アピールをし、翌27日出帆したという事件がありました。外国艦が示威だけで去ったことは、稲葉老中・会津藩より関白に知らされ、中川宮も29日にはそのことを日記に記しています。これにより、艦隊の下関退去が確認さたため、いよいよ征長をという流れだったんでしょうか。

【京】元治1年8月30日、朝命を受け取った松平容保・松平定敬・稲葉正邦は、江戸老中に対し、朝命伝達の添状を連名で記し、征長の速やかな実行を促しました。(※)

〇在府老中宛容保・定敬・正邦の朝命伝達の送り状(句読点は管理人)
「長州御追討総督尾張大納言殿へ被仰付候へ共、今以、御請無之趣、右様延日相成候ては不都合の儀可生哉に付、早追討可有之旨被 仰出候段、別段の通、伝奏より申越候間、勘弁致し候処、追討の儀、因循に流れ候ても、御尊崇筋に拘り候義勿論、討手の諸家一同奮起罷在候処、失機会候ては、往々不都合を可生も難計、心痛罷在候。篤と御熟考、急々御処置相成候様御取計有之度、尤、右の趣、一橋殿へも御相談申上候処、御同意にて、御心配被為在候。依之伝奏より差越候書面相添、比段、以急使申進候。以上
   八月晦日    稲葉美濃守・松平越中守・松平肥後守
     水野和泉守様・牧野備前守様・松平伯耆守様・阿部豊後守様・諏訪因幡守様」
(※)この書状は、上の朝命、25日の将軍上坂の朝命(こちら)とともに、9月3日、会津・桑名藩士により、江戸城に届けられました。

<ヒロ>
送り状を読んでいて、ちょっと面白かったのが、@伝奏が伝えてきた朝命のうち「最早御請上京等無之義に候は々、先、副将以下進発早追討可遣の旨」という部分が含まれていないこと、A容保ら自身の意見は、早々の征長に絞られており、しかも、心痛・心配しているので、よく考えて取り計らってほしい、というマイルドな表現になっていること、の二点です。江戸方面に配慮してますよね。慶喜と相談したとあるので、その結果でしょうか。

参考:「老中稲葉正邦等用状」、「武家伝奏衆達」、「長州御追討一件」『稿本』(綱要DB 8月30日条 164、172、173)(2018/5/11)
関連:テーマ別元治1第一次幕長戦

>横浜鎖港問題
【江】元治1年8月30日、老中阿部正外は、海軍操練所の軍艦に乗船して品川を出港し、海路上京の途につきました。(船が途中で破損し、阿部は浦賀に上陸。修理が完了して出港したのは9月5日になります)。

横浜鎖港問題などを奏するために、24日に上京を命じられていました。(8月23日に、四国代表が幕府外国奉行と会談を行ったようなので、その結果を受けての上京命令かも?)

参考:「白川藩届書」(『稿本』)(綱要DB 8月24日条 130、136)(2018/5/11)
関連:テーマ別元治1■横浜鎖港問題(2)

その他の主な動き
会津藩、公借米金を役料等と相殺せんことを幕府に請う。(却下)

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