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元治1年8月28日(1864年9月28日)

【京】徳川慶勝、征長総督辞退書を朝廷に提出
【尾張】(27日?)徳川慶勝、会津藩・桑名藩の入説により、総督の後任に一橋慶喜を推す直書を老中宛に認める。
【江】東下中の会津藩公用方柴太一郎、幕府の内情(慶喜への嫌疑、会津藩疎外)
及び将軍徳川家茂上洛遅延の事情を在京藩士に報知
【越前】征長副将・越前藩主松平茂昭、兵を率いて上京へ

【坂】8/26 下関で長州に勝利した四国艦隊のうち十一隻、大坂天保山沖に碇泊。翌27日、横浜に向けて退帆。

☆京都のお天気:夕景より降雨不及破塊 (『嵯峨実愛日記』)

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■征長総督問題
【尾張】元治1年8月28日、前尾張藩主徳川慶勝は、朝廷に対し、病を理由とした、征長総督辞退書を認めました

<ヒロ>
慶勝は、一橋慶喜宛の8月23日付書簡で慶喜に征長総督の台命を辞退したことを知らせるとともに、朝廷への執成しを依頼していました(こちら)

参考:「聞集録」「飛鳥井正典日記」『稿本』(綱要DB 8月23日条)(2018/5/10)

【尾張】元治1年8月28日(27日?)、前尾張藩主徳川慶勝は、会津藩・桑名藩の入説に応じて、老中水野に対し、征長総督の後任として一橋慶喜を推す直書を認めました。(翌29日、会津・桑名藩士が江戸に向けて尾張を出立)

<ヒロ>
去る25日、会津藩・桑名藩・肥後藩は、徳川慶勝に征長総督の早期就任、固辞の場合は一橋慶喜の後任指名促すことで一致し、藩主が慶勝と異母兄弟の会津・桑名藩が藩士を名古屋に派遣していました。(こちら)

参考:「鳥取藩安達清風日記(9月6日条)」『稿本』(綱要DB 8月28日条)(2018/5/10)


■京都と江戸の幕府首脳の隔絶
【江】元治1年8月28日、将軍進発周旋のため東下中の会津藩京都公用方柴秀治(太一郎)は、同僚大野英馬らに対し、将軍進発遅延と徳川慶勝の征長総督辞退、幕府の一橋慶喜への疑念が大きいこと、幕閣が諸藩の政治介入を忌避し、自分たちも江戸公用局も幕閣に会えず、情報も洩らしてもらえないことなどを報じました。(この書状は9月10日に京都で受け取り)

※柴秀治は、慶喜の使者(目付小出五郎左衛門)に随行し、所司代の使者(森弥一左衛門)とともに海路東下。目的は、@将軍の「急速」進発、A幕府による外国艦隊の長州退去説得の周旋(こちら)

〇8月28日付(柴)秀治書簡のてきとう訳
8月21日夜に大坂を発し、海路24日に着府。
御地(=京都)とは一体気候違居、兎角御因循」である。御進発の手配はしている様子だが、未だに出発の日限等が定まらず、急には難しい勢いである。来月中旬、旗本の行軍上覧がある予定で、進発はその後、来月末か10月始めになるともいう。また、この度は、前もって日限等は公表せず、随時進発ということになり、行軍上覧には含みがあるとの風評もある。いずれにしても急には実現しそうもない
(征長)総督の件は、老公(=徳川慶勝)が辞退された。関ヶ原、大坂の神君の親征を先例として(将軍が)進発すれば、病を押して出陣するので総督の名義は免じてほしい、と使者(彦三郎)を遣わして上申されたとのことだが、是非とも請けるようにとのことで許されず、使者は帰国した。よって「好機会」なので橋公が替りに総督になるよう「頻りに周旋致居候得とも、御同公はここ許(=江戸)にて存外御疑被居候振合に而、中々御氷解に至兼」ね、遺憾なことである
長州襲来の外国説得の件は、(容保の)趣意通りの処置になりそうなので安堵してほしい。
この度、出府してみたところ、「大塞蔽之極」になっており、「御役人御逢無之」、到着後は御目付衆に言上したのみで、未だ閣老には拝謁ができない。「左兵衛先生」(=京都公用人野村左兵衛。8月上旬に老中阿部正外に同行して出府)なども同様で、未だに拝謁できず、阿部様に、二度、御親類(会津3代藩主・5代藩主の室が阿部家出身)の縁で、内々に拝謁された程度なので、左兵衛先生・森・小寺(桑名藩士)など、一同が毎日閣老のところへ赴き、拝謁を願っても、委細は小出や目付から聞くようにと、お会いにならず、ついには激論になったが、御用繁多・御所労を理由に、いつも空しく戻る次第である。
やむを得ず(江戸の)公用人に様子をうかがったところ、これまた「近頃は何も御洩無之、一切不存候」とのこと。ひそかに伺うところ、近年の言路洞開の弊が、近頃濫りになって御威光にも響き、一度御治定になったことも入説によって変更するなどかえって不都合なので、(幕閣は)諸藩士に会わず、幕議も一切洩らさぬことを申し合わせている由。濫りに会わないという方針は至極もっともだが、事柄、人による。今回の御使いなどは、余事ではなく、野村先生を含め、お会いにならないというのは言語道断で、憤怒に堪えない。
今回、阿部様は、小出様の用向きすらお聞きにならない状況で、(江戸の)公用局も少人数である中、空しく滞留するのも恐れ多いが、もう少し滞留し、御進発の日限でも分かり次第、帰京するつもりである。
広沢(富次郎)、小生の到着前に帰国。一両日中に出府の予定。
その後、御当地の情勢はいかがだろうか。このように(江戸が)御因循では、せっかくの「諸藩奮発」も「瓦解」するだろうと「懸念」している。

<ヒロ>
・江戸の幕府首脳に、慶喜が疑われているだけでなく、会津も敬遠されていることがはっきりわかりますね。京都方視点だと、「江戸の老中・役人、ひどい!」ですが、あ〜、やっぱりね・・・て感じでもあります。それにしても、慶喜に対して疑念があることを、江戸に来るまでよくわかってなかったのにちょっとびっくり。(ちょっとの間上京した坂本龍馬ですら、薩摩藩からきいて知っていたのにこちら)。
・京都でも江戸でも慶喜征長総督を周旋する会津藩!本当に、会津藩の慶喜に対する見方は禁門の変前後で大きな違いです。でも、せっかく、京都の方が、穏便に慶勝を通して申し入れようとしているのに、頻りに周旋しちゃって大丈夫?まだ、老中には申し入れていないからセーフ?
野村左兵衛・広沢富次郎(安任)は、京詰です。8月2日、将軍進発を促すため、老中阿部正外とともに東下することを命じられ(こちら)、4日に下坂(こちら)、6日に着府していました。柴秀治や大野英馬たちに「先生」と尊敬される野村は、諸生・下士を登用した「一藩の依頼」と称される会津藩士です。長沼流軍学家で諸藩にも弟子が多かったらしいです。
・なお、野村左兵衛らと帰府していた老中阿部正外は、再び上京を命じられ、翌29日には品川から出帆するので、会津藩にとっては、ますます頼りの綱がいなくなることに・・・。(そして、果たして阿部が上京する情報をキャッチしていたのかどうか・・・)

参考:8月28日付(大野)英馬様・(庄田)又助様・(?)多門様宛(柴)秀治書簡『会津藩庁記録』五p609-612(2018/5/10)
関連:テーマ別元治1■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

■征長副将上京
【越前】元治1年8月28日、征長総督が未定の中、副将・越前藩主松平茂昭(もちあき)は、予定通り、兵を率いて上京の途につきました。

当初、越前藩では、茂昭の出発を19日と定め、そのことを15日に藩内に布達していましたが、翌16日、征長総督交替の知らせが届いたので、出発を一時見合わせ、名古屋に使者を派遣して軍務を協議させることにし、21日には改めて28日の出発を布達しました。ところが、27日、名古屋へ差し向けた使者が戻り、慶勝が病を理由に総督を辞退したため協議はできないとの返答だったと復命しました。茂昭が出陣しても、肝心の総督がいなくてはしょうがないとの議論もありましたが、既に諸藩に追討の命が発された今、たとえ総督が未定であるにせよ、副将までが出陣を遅らせては諸軍の人心に影響するとの議論もあり、やはり、予定通り出発し、上京の上、一橋慶喜や在京老中に「厳談」することに決したのだそうです。

<ヒロ>
当初の紀州・越前コンビのままなら、さくさくと征長が進んでいたような・・・。

参考:『続再夢紀事』三p286-287(2018/5/6)

関連:テーマ別元治1第一次幕長戦

その他の主な動き
【京】備前藩士日置数馬・同水野助太夫、慶喜に謁し、長州藩主毛利敬親の為に斡旋せん事を陳ず。慶喜、敬親をして専ら恭順哀訴せしむべきを諭す。

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