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元治1年8月25日(1864年9月28日)

【京】この日?朝廷、将軍徳川家茂の急速上坂を命じる
【京】会津藩・桑名藩、前尾張藩主徳川慶勝に征長総督の早期就任、
固辞の場合は一橋慶喜の後任指名を周旋するため、藩士を名古屋に派遣
【紀?】征長総督更迭の紀州藩主徳川茂承、幕府に対し、家臣の鋭気を挫かぬため、将軍進発時の先鋒を請う

8/24の動き【江】幕府、9月中旬の征長行軍上覧を発表。老中本荘宗秀・若年寄格土岐頼之に将軍進発の随行を、老中阿部正外に上京を命ず。

☆京都のお天気:陰晴不定(『嵯峨実愛日記』)

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■将軍進発問題
【京】元治1年8月25日、朝廷は、将軍徳川家茂の速やかな上坂を命じました。(30日説あり)

「防長追討被 仰出候付、大樹にも進発可有之旨至当の儀 思召候。遂ては支度有之儀進発とは被 思召候得共、自然及因循候ては、人心にも差障候間、速に上坂有之候様被遊度被仰出候事
  八月」

<ヒロ>
将軍の急速上坂は、中川宮(尹宮)がかねてから主張していたところで、8月23日、将軍の使者本多忠民が参内して会った時にも、将軍の早期上坂を周旋するよう申し入れていました(こちら)。そして、中川宮の日記には、24日の条に「大樹被召候事」、伝奏飛鳥井雅典の日記に上坂を25日に達すとあるので、中川宮が、本多の出京前に朝命がおりるよう強く働きかけたのかもしれません。(本多の出京・着府の日は探せませんでしたが)。

中川宮・雅典、どちらの日記にも、召命の内容は記されていないので、「」内は30日説の『京都守護職始末』です。上坂ってことは、海路でさっさと来い、そして大坂城で指揮をとれってことですね。(外国艦隊が摂海に来るという噂もあったので摂海防御っていう意味もあったのでしょうか?あるいは二条城から指揮をとる=京都を最前線にしたくないってことでしょうか?)

ちなみに、30日説は、この勅書と征長総督督促の書付(30日付)がセットになっています。

参考:「飛鳥井雅典日記」『稿本』(綱要DB 8月30日条(160))、『朝彦親王日記』一p41、『京都守護職始末』

■征長総督問題
【京】元治1年8月25日、会津藩・桑名藩・肥後藩は、前尾張藩主徳川慶勝に征長総督の早期就任を促し、辞退の場合は一橋慶喜の後任として推すことで意見が一致し、慶勝と親戚筋の会津・桑名藩が藩士を名古屋に派遣しました(※徳川慶勝、松平容保、松平定敬は高須藩主松平義達の息子で異母兄弟)

〇8月25日に在京会津藩士が在府家老に報じた経緯(のてきとう訳)
24日、会津藩に、桑名藩・肥後藩周旋方から連絡があり、大野英馬(公用方)・庄田又助が会議に参加した。
そうしたところ、(肥後藩が)長州征伐について、討手を命じられた諸藩が追々出陣にもなるのに、総督が未定で、尾張前様は未だ御請けにならない、あるいはご病気で自体されるという説もある。実際のところを確認するため、一両人を名古屋へ派遣したが、皆、帰ってこず、一向に様子がわからない。もっとも、御同方様(=慶勝)より水野彦三郎と申す者を江戸表へ遣わされたとのことだが、これにしても、どういう用件で派遣されたのか不明である(※実際は、辞退の使者)。いよいよ総督の御勤めが困難となれば少しでも早く辞退を言上され、その後任に一橋様を指名し、総督を命じられるようしたい。そういうこともないまま、あまり遅延すれば品々議論も起り、公辺の為にならぬぬことが出来しかねず、甚だ不安である。何とか御家(=会津)・桑名様から尾張前様へお使いを派遣され、少しも早く御請けになるよう、万一病気で速やかな出馬が難しい様子であれば、皇国のために辞退を言上し、一橋様を総督に命じられるよう言上してはどうかと申し出た。
もっとも至極なのでその旨を公用人方より(容保へ)申し出、総督が早く決まらなければ御為にならぬと御内慮うかがったところ「思召し不被成」なので、公用方へ申し含め、一橋様へ報告したところ「御用意に被為在」だった。そこで、小森久太郎(=京都公用人)に名古屋への使者を命じ、柏崎才一(=江戸留守居)も同所(=名古屋)まで一同向かうよう命じられた。桑名様よりも使者を派遣されるので、今日、一同出立する。江戸でもよろしく取り計らってほしい。
(段落分けも管理人)

<ヒロ>
確かに、慶勝が辞退してしまったら、再度紀州藩主徳川茂承に頼むわけにもいかず、かといって水戸藩主徳川慶篤は天狗・諸生の乱でで江戸を離れられないので、後任は、格的に慶喜くらいしかいないですが・・・。慶喜の征長総督案は、7月23日に会津藩に伝達されており(こちら)、禁門の変直後の在京幕府首脳の総意だったようです。でも、慶喜に対しては江戸の幕閣は昔から嫌疑をもっていて、それを主張するわけにはいかなかったんですよね。そこは、会津・桑名・肥後もわかっていて、慶勝の口からということでしょうか。

ところで、なぜ、肥後藩?と思うのですが、8月23日の会津藩の凝花洞滞留の朝命について、肥後藩は桑名藩等とともに周旋しているので(こちら)、会津藩・桑名藩との距離が縮まったのかもですね?

参考:8月25日付(江戸家老)上田一学殿宛(在京)西郷文吾・内藤近之助・一瀬要人・神保内蔵助書簡「会津藩庁記録」『稿本』(綱要DB 8月25日条)(2018/5/5)

【紀州?】元治1年8月25日、紀州藩主徳川茂承は、幕府に対し、家中の鋭気を挫かぬため、将軍家茂進発時の先鋒を努めたいと懇願しました。

〇茂承の上書
「征長の儀に付、不肖之私へ総督可被 仰出御沙汰有之、実に其任に不堪候得共、家臣に於ては一統奮励致し、報国の秋と相期候処、此度尾張前大納言へ右総督被仰付候段、同人儀は歯徳備り候儀に付、誠に御至当の御事と大慶仕候、右に付、此上は浪花守衛之儀専一に尽力仕候心得には御座候得共、公方様にも御進発可被遊旨被仰出候事に付、空敷守衛のみ致罷在、此度之大挙に相洩候ては武門の身に取不安之次第、就ては家中の鋭気も相挫け、藩職を奉し候には差障り甚た以残念之至に御座候に付、何卒右御親討被為遊候節は摂城守衛は厳重に備置不腆の弊賦を尽し、御共仕、御先鋒をも奉畏度、若御親討無之候共、一隊之人数を差出、相応之任に相当り、三百年来之鴻恩に奉報度、涓滴之志願に御座候間、何卒右之段、御許容被成下度、肝胆を吐露し、伏て奉懇願候」(※カタカナ→平かな、旧字→適宜当用漢字)

※茂承は、8月4日に征長総督を命じられましたが、7日には「思召」により、総督は前尾張藩主徳川慶勝に交替となりましたこちら)。そして、21日、将軍進発時の旗本後備を新たに命じられていました。

<ヒロ>
総督を3日で更迭されただけでもどうかと思うのに、その後の部署が「後備」ですものね。名誉のため、せめて先鋒をというこの懇願は、差し迫るものがあります。(でも結局聞き届けられず、さらに面目をつぶす結果に・・・)。それにしても、こんなにやる気あふれる紀州藩から、なぜ、尾張藩にしちゃったんですかねえ。

参考:「南紀徳川史」『稿本』(綱要DB 8月25日条)(2018/5/5)

関連:テーマ別元治1第一次幕長戦

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