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いろはに幕末薩摩藩かけあし事件簿【1】

8代重豪 ・9代斉宣 ・10代斉興 ・11代斉彬

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宝暦

天明
年間
■11代将軍家斉の岳父・財政悪化
宝暦5年(1755)、島津重豪(しげひで)が8代藩主に就いた。重豪は蘭癖大名と呼ばれるほど海外文化に興味を示し、種々の近代化政策をとった。また、重豪の養母(父継豊夫人)は5代将軍徳川綱吉の養女竹姫、夫人は一橋宗尹の娘保姫、そして娘茂姫は近衛家養女として11代将軍家斉の夫人になった(後の広大院)。重豪は将軍の岳父として、また島津家は御台所の実家として権勢を誇った。しかし、藩財政は逼迫し、藩債(借金)は120万両余にも達した。




天明・
文化
年間
■近思録崩れ(文化朋党事件)
天明7年(1787)、重豪は娘茂姫と将軍の婚姻を機に隠居し、それに伴い、長男の斉宣(なりのぶ)が9代藩主に就任した。斉宣は悪化した財政の再建のため、秩父太郎・樺山主税ら(近思録派)を登用して改革をはかったが、その方法が重豪の怒りを買った。文化5年(1808)に秩父・樺山は切腹、100余名は遠島等の処分を受け、翌文化6年(1809)に斉宣(37歳)は隠居させられた。
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文化・
文政・
天保・
弘化
年間
■重豪の院政
文化6年、隠居させられた斉宣長男で19歳の斉興(なりおき)が10代藩主に就いた。藩政は重豪が輔佐した。

■調所広郷の改革(薩摩藩の天保改革)
薩摩藩の赤字は累積し、文政年間末には借金は500万両に膨れ上がった。文政11年(1828)、重豪と藩主斉興は調所広郷(ずしょ・ひろさと)に財政再建を命じた。調所は藩債の250年賦償還(無利子)、琉球を通しての清との密貿易、奄美大島など三島の砂糖の専売制強化、国産品の改良・増産などを次々と実行した。改革が巧を奏し、16年後の弘化元年(1844)3月には目標であった50万両の備蓄を達成した。しかし、奄美の人々は収奪に苦しんだ。(「覚書」「諸藩の天保改革」と「余話」「奄美の黒砂糖」を予定)。【関連:「開国開城−天保年間:開国前夜(1)」】

琉球外交問題と軍制改革
文政7(1824)年、薩摩領の宝島に英国捕鯨船が現れ、一部船員が上陸して島民と諍いを起した(宝島事件)。捕鯨船は3日後に立去ったが、翌文政8年に幕府が異国船打払令を出すきっかけとなった。また、天保8(1837)には浦賀を追い払われた米国船モリソン号が鹿児島湾沖に現れた。事件に刺激された藩は洋式砲術を導入した。天保13年にアヘン戦争で清が敗北し、弘化元年以降、仏・英国船が相次いで琉球に来航して通商開国を要求すると、弘化4年、軍制を洋式に改革した。琉球・海防担当の名代には家老に登用された斉興の愛妾(側室)由羅の子久光が就いた。(「覚書」「薩摩藩と海防」・「琉球外交問題と久光の登場」を予定)
嘉永
年間
調所の服毒自殺と「お由羅騒動」(斉興と世子斉彬の対立)
斉興と世子斉彬(なりあきら)は不仲で、斉彬は40代になっても家督を譲られなかった。 斉彬重豪ゆずりの蘭学趣味が、斉興・調所の立て直した藩財政を危うくすると心配されたからだという。藩内も斉彬擁立派と久光擁立派に分かれていた。斉彬は斉興を支える調所政権崩壊を狙い、隠密を使って失点を調べさせた。嘉永元年(1848)、調所が江戸藩邸で急死したが、幕府に露見した密貿易の責任をとっての服毒自殺だといわれる。また、この頃、由羅が斉彬父子を調伏したとの噂が流れ、斉彬の藩主即時就任を望む斉彬派は障害となる重役暗殺を企てた。計画を知った斉興は激怒し、嘉永2年(1849)、斉彬派約50名に切腹・遠島・謹慎などの重い処分を下した(高崎崩れ、近藤崩れ、お由羅騒動、嘉永朋党事件という)。(⇒「余話」「お由羅騒動と大久保利通」を予定)

斉興の隠居
斉興を隠退させようと考える斉彬は今度は首席老中・阿部正弘の力を借りることにした。阿部に圧力をかけ続けられた斉興は、嘉永4年(1851)1月、ようやく隠居願いを出した。(「余話」「茶器を渡された斉興」を予定)
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斉彬
嘉永
年間
■斉彬の就任と富国強兵策
嘉永4年(1851)、斉興の隠居でようやくに28代藩主に就いた斉彬(43歳)は薩摩藩の近代化を目指す富国強兵策を実施した。鉄製砲鋳造のための反射炉や溶鉱炉・ガラス製造(薩摩切子)所等を整備し、これらの設備を集成館と称した。また紡績事業の振興・洋式船の建造など最先端事業の数々に着手した。

■黒船来航・海防強化と徳川斉昭登用主張
嘉永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊提督ペリーの率いる軍艦4隻が浦賀沖に来航し、開国を要求した。斉彬は積極開国論だったが、幕府の諸大名諮問時には、アメリカへの回答を延期する間に海防強化をはかり、海防は前水戸藩主の徳川斉昭に任せるべきだと答申した。越前藩主松平春嶽に対しても働きかけ、7月、幕府は斉昭に海防参与を命じた。外様藩主であり、国政に参与できない斉彬は、その後、斉昭や春嶽と頻繁に国政に関する意見を交換している。【関連:「開国開城:開国勧告とペリー来航予告」 「ペリー来航」
安政
年間
一橋慶喜の擁立運動
黒船来航という非常時にあって、時の将軍家定は病弱で奇行もあり、その後継者選びは幕府の重要課題であった。次期将軍には有能な人物をと考える斉彬は、松平春嶽・伊達宗城(宇和島藩主)・山内容堂(土佐藩主)らとともに、英明だと評判の一橋慶喜(徳川斉昭実子・21歳)の擁立をはかった(一橋派・幕政改革派)。一方、将軍と血縁の濃さを重視する彦根藩主井伊直弼らは紀州藩徳川慶福(家茂:12歳)を推していた(南紀派・保守派)。斉彬は腹心の西郷隆盛(吉之助)を京都に送り、越前藩の橋本左内と連携の上、朝廷工作を行わせた。また、安政3年(1856)に家定夫人となった斉彬の養女篤姫(さらに近衛家養女となって家定と結婚)も大奥工作を試みたという。(この縁談は、もとは、嘉永3年(1850)に幕府から島津家に適任者はいないかと持ち込まれたもの)。しかし、安政5年(1858)4月、南紀派の井伊が突如大老に就任し、5月、後継には南紀派の推す紀州の慶福(家茂)が指名されて一橋派は敗北した。【関連:「開国開城:将軍後継問題と条約勅許問題」】(「覚書」「大奥」を予定)

未発の率兵上京計画
斉彬は将軍後継が慶福に決まれば騒乱が起るとみており、その場合は率兵上京して朝廷を守護しようと考えていたという。あるいは、率兵上京は一種の武力クーデター計画で朝廷に攘夷を捨てさせ、条約勅許を得ようとしたのだともいう。しかし、慶福が指名されてから間もない7月に斉彬は病で急死し、率兵上京は実現はしなかった。斉彬の治世はわずか7年間だったが、「斉彬公の御遺志」は薩摩藩の行動根拠となり、幕末に大きな影響を与えた。
(2004.1.21、1.23,)

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主要参考文献:(リンク先も参照してください)
『鹿児島県の歴史』・『人物叢書島津斉彬』・『人物叢書島津重豪』・『島津久光と明治維新』・『大久保利通日記』・『清河八郎遺著』・『大久保利通』・『人物叢書西郷隆盛』・『大久保利通と明治維新』・『徳川慶喜公伝』・『明治維新人物辞典』・『玉里島津家史料』・『忠義公史料』・『維新史料綱要・『幕末政治と薩摩藩』

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