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幕末薩摩藩かけあし事件簿(2)安政5〜文久1

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(文久2)

12

茂久
安政5
(1858)
/安政6
(1859
)
茂久の12代藩主就任
安政5年(1858)7月、急死した斉彬の遺言により、久光の長男茂久(忠義)が29代藩主に就いた。茂久の後見は天保改革を推進した祖父斉興が務め、斉彬の着手した事業は多くが縮小・中止された。

安政の大獄と西郷隆盛の遠島
この頃、将軍後継問題に勝利した南紀派の大老井伊直弼によって、政敵一橋派の弾圧(安政の大獄)が始まった。京都にいた西郷は、安政5年11月、近衛忠煕の依頼で勤王僧月照を連れて帰国した。しかし、幕府との関係悪化を恐れる藩庁は月照の保護を拒絶し、失望した西郷は月照と鹿児島湾に身投げをした。西郷は一命を取りとめたが、藩では西郷を死亡したと届け、奄美大島に潜ませた。

【関連:「開国開城;戊午の密勅と安政の大獄」】

精忠組誕生・挙藩一致の政治運動へ
安政6年(1859)、保守化する藩庁の動きとは逆に、若手藩士の間では尊攘運動が高まった。国許では大久保利通(一蔵)・有村俊斎(海江田信義)ら40名が脱藩突出して関白九条尚忠・所司代酒井忠義を暗殺することを計画し、江戸では伊地知貞馨(堀仲左衛門・次郎・小太郎)・有馬新七らが水戸藩激派と共に大老井伊直弼の暗殺を計画していた。

同年9月に斉興が死去し、茂久の後見には実父の久光が就いた。11月、大久保らの脱藩突出計画を知った茂久久光に相談の上、中止を求める直書を大久保らに送った。その内容は、彼らを「精忠の士」と認め、事変到来の時には斉彬の遺訓を引継ぎ、藩を挙げて朝廷を守って忠勤を尽すつもりなので、その時は藩の柱石として自分らを助け、藩命を汚さず精忠を尽すよう頼むというものだった。感激した大久保らは突出を中止し、以後、挙藩一致の運動を推進することにした。彼ら同志は精忠組と称されるようになった。(「資料」「島津忠義の諭書」「大久保利通の上書」/「余話」「囲碁で久光に接近」)。
万延1
(1860)
桜田門外の変と薩摩藩の挙藩出兵自重 
一方、江戸では、井伊暗殺と同時に、薩摩兵を京都に迎え、朝廷を擁して幕府に改革を迫る計画が進んでいた。万延元(1860)年2月、連絡を受けた大久保は、出兵と西郷の呼び戻しを願い出たが、久光は挙藩出兵には(1)事変到来の時であること、または(2)勅命があること、が必要だとして出兵は却下した。西郷の呼び戻しも叶わなかった。不満をもつ藩士は突出を主張したが、大久保が抑えた。この間、鹿児島から江戸組説得に使者が向ったが間に合わず、国許の呼応を信じる有村次左衛門は、3月3日、水戸藩激派とともに井伊の暗殺を決行した。次左衛門は首級をあげたが重傷を負い、自刃した。また、次左衛門兄の有村雄助は水戸藩士金子孫次郎とともに京都に向かい、薩摩藩の上京を待ったが、途中で捕縛され、鹿児島に送られて切腹に処せられた。

大老暗殺を知った大久保は、事変到来の時なので挙藩出兵をと久光に直訴したが、久光はなおも自重の姿勢を崩さなかった。また、藩主茂久は参勤交替のため13日に鹿児島を出発していたがその途上で事件を知り、病と称して引き返した。

【関連:「開国開城−勅書返納問題と桜田門外の変」】(「覚書」「桜田門外の変と薩摩藩」)

井伊の死後、幕府をリードした老中安藤信正・久世広周は公武合体策を推進し、将軍家茂と皇女和宮の結婚を孝明天皇に申入れた。天皇は(1)10年以内の攘夷の実行と(2)公武合体・一和を天下に示すことを条件に、結婚を承諾した。

【関連:文久1(1861):公武合体策と和宮降嫁
文久1
(1861)
「国父」久光
文久元年(1861)4月、久光は久光に復帰し、「国父」の称号を得た。この頃には藩政から斉興派(天保改革派)は更迭されて斉彬時代の家老が再登用され、また久光側近として小松帯刀・中山中左衛門らが頭角を表した。

久光の東上(上京・出府)計画と精忠組の抜擢
文久元年に入って、中央政局には薩摩藩同様の外様藩の長州藩が、長井雅楽の航海遠略策を以て進出し始めた(こちら)。ライバルの活躍に刺激された久光は、今こそ、前藩主斉彬の遺志を受け継いで率兵東上し、朝廷と幕府の対立を調整して(公武合体)、幕政改革を行う時だと考えた。しかし、いくら薩摩藩の実力者とはいえ、大名ではない陪臣で無位無官の久光がそのような運動を行うことは幕府の禁じるところだった。まず、藩内の体制を整えるため、久光は東上慎重派を罷免し、代って、挙藩出兵派の大久保・伊地知ら精忠組幹部を次々と抜擢した。

江戸屋敷自焼と参勤猶予
伊地知は江戸に到着すると、久光東上の下準備として、藩主茂久の参勤猶予を幕府に願出た。これが却下されると、江戸藩邸に火をつけ、参勤は不可能だと訴えた。自焼だと知らない幕府は猶予を認め、藩邸再建費用を貸与した。久光はその礼を口実にした上京・上京を決め、12月下旬、大久保を京都に派遣して、朝廷工作を行わせることにした。

薩摩藩激派と西国志士の密約
12月、出羽の浪士清河八郎らが、九州を訪れた。清河は青蓮院宮の密旨を奉じていると称して同志を募り、所司代酒井忠義を斬って京都で尊王攘夷のために挙兵することを考えていた。清河は、筑後・肥後・豊後を廻って志士と会って、廃帝説を唱えて天皇の位が危ういと論じ、平野次郎(浪士)・伊牟田尚平(薩摩藩)を精忠組に派遣した。その結果、清河は京都で薩摩藩に対する討幕挙兵の勅書を得て戻り、平野・真木和泉が引続き同志を募ることになった。

【関連:「開国開城:島津久光の率兵上京と寺田屋事件
(2004.1.21、1.23, 6.26)

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主要参考文献:(リンク先も参照してください)
『鹿児島県の歴史』・『人物叢書島津斉彬』・『人物叢書島津重豪』・『島津久光と明治維新』・『大久保利通日記』・『清河八郎遺著』・『大久保利通』・『人物叢書西郷隆盛』・『大久保利通と明治維新』・『徳川慶喜公伝』・『明治維新人物辞典』・『玉里島津家史料』・『忠義公史料』・『維新史料綱要・『幕末政治と薩摩藩』

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