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いろはに幕末土佐藩


【かけあし事件簿】

前史
■山内土佐藩の誕生
戦国時代、土佐は長宗我部氏に支配されていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に就いたため領地を没収された。代って、東軍の遠江掛川(5万石)領主山内一豊が土佐藩主に任命された。土佐藩の石高は表高20万2,600石余だが、幕末には実高は約50万石となっていた。
13
豊煕
天保・
弘化・
年間
■天保の庄屋同盟
諸藩の例にもれず、土佐藩においても天保期には藩の財政は悪化し、毎年銀約千貫の赤字を出していた。士民の生活も窮乏していた。天保12年(1841)には、細木庵常を中心として天保庄屋同盟が密に結成された。彼らは日本の総主は天皇、代官は将軍、組頭は大名、庄屋は小頭だと位置づけ、庄屋も天皇に直属して土地人民を預かる職だという点では大名と同じだと考えていた。この庄屋同盟の精神が土佐藩における勤王運動に引き継がれていったといわれている。

■13代豊煕と土佐藩の天保改革
天保14年(1843)3月、12代豊資の隠居に伴い就封した13代豊煕が天保の藩政改革を推進し、弘化年間にかけて倹約の励行・役所冗員の整理・士風振興・西洋砲術の導入などを行った。しかし、保守派の抵抗も大きく、馬淵嘉平ら新進改革派(「おこぜ組」)は異学信奉を理由に処断されたし、豊煕が目をかけた吉田東洋も郡奉行・船奉行に就いたものの、病を得たこともあり、力を振るえなかった。【関連:「開国開城-天保年間:開国前夜」】(「余話」「おこぜ組の獄」)
15
容堂
嘉永
年間
■15代容堂の就任
嘉永元年(1848)7月、豊煕(34歳)が江戸で病死した。夫人(島津斉興の娘で斉彬の妹)との間には実子がおらず、14代藩主には実弟の豊惇(25歳)が就いた。ところが、その豊惇も、幕府に家督相続を認められての帰国途上、嗣子のないまま急死した。このままではお家とりつぶしである。土佐藩では豊惇の死去を隠したまま分家南屋敷の容堂(豊信)を豊惇の養嗣子とし、豊惇の隠居と容堂の家督相続が幕府に願い出た。その結果、同年12月、容堂は15代藩主に就任した。実は豊惇の死去は公然の秘密であり、幕府が容堂の就任を認めたのは、首席老中阿部正弘に対して、縁戚の薩摩藩島津斉彬らが裏工作したことが功を奏したのだという。

のちには幕末四賢候と称される容堂だが、襲封当初は、保守的な隠居豊資が健在で、自主的な政策は行えなかったという。夫人には右大臣三条実万の養女正姫を迎えたが、嗣子は豊資の末子豊範(のち16代藩主)と定められた。

■ジョン万次郎の帰国
嘉永5年(1852)7月、中浜出身の漂流者ジョン万次郎が帰国した。高知では大変な歓迎を受け、山内家一門・連枝・家老などに招かれたという。東洋も万次郎を自宅に招いたらしい。

■黒船来航・鎖国と海防強化を具申
嘉永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊提督ペリーの率いる軍艦4隻が浦賀沖に来航し、開国を要求した。この時、首席老中阿部正弘は慣例を破って幕臣・諸候に対策を諮問したが、容堂は、東洋(当時大目付)の草案に基づき、開国拒否と海防強化(オランダ技術者を招いて軍艦・大砲製造)を具申した。【関連:「開国開城:開国勧告とペリー来航予告」 「ペリー来航」

藩政改革と吉田東洋・小南五郎右衛門の起用
同年9月、容堂は隠居豊資の同意を得て藩政改革を宣言した。改革にあたっては東洋(38歳)を参政(仕置役)に、小南五郎右衛門(41歳)を側用役に抜擢した。
安政1
(1854)/
安政5
(1858)
東洋の失脚
安政元年(1854)6月、東洋は不敬の罪で参政を罷免され、8月には録没収の上、追放を命じられた。失脚した東洋は鶴田に閑居し、「少林塾」を開いた。門下には後藤象二郎(東洋の義理の甥)・福岡孝弟・神山左多衛・間崎哲馬・岩崎弥太郎などが集まった。(「余話」「容堂と藤田東湖の腕相撲」「吉田元吉頭もこくが・・・」)

一橋慶喜の擁立運動
安政元年(1854)、ペリーが再来し、日米和親条約が結ばれた(こちら)。安政3年(1856)には総領事ハリスが来日し、通商条約(実質的な開国)を強く迫った。開国やむなしとする幕府は反対意見を抑えるために勅許を得ようと考えたが、孝明天皇の強い意志もあり、工作は難航した。このような非常時にあって時の将軍家定は病弱で実子もなく、後継者選びは幕府の重要課題であった。将軍後継には、英明だと評判の一橋慶喜(徳川斉昭実子・21歳)を擁立する一派(一橋派・幕政改革派)と現将軍との血縁の濃さを重視して紀州藩徳川慶福(家茂:12歳)を擁立する一派(南紀派・保守派)が鋭く対立した。外様藩主である容堂は、本来将軍後継について意見する立場ではなかったが、松平春嶽(越前藩主)・島津斉彬(薩摩藩主)伊達宗城(宇和島藩主)らとともに慶喜擁立運動に参加し、越前藩の橋本左内と連携しながら縁戚の三条家を通して条約勅許獲得の朝廷工作を行った。しかし、安政5年(1858)4月、南紀派の彦根藩主井伊直弼が突如大老に就任し、5月、慶福(家茂)が後継に指名されて一橋派は敗北した。また、6月には勅許を待たずに条約に調印し、7月には井伊を批判するために不時登城した一橋派大名に隠居・謹慎などの処分を下した。【関連:「開国開城:将軍後継問題と条約勅許問題」】(「余話」「容堂の大坂焼却論」を予定)
16
豊範
安政6
(1859)
容堂の隠居・謹慎16代藩主豊範就任
翌安政6年(1859)2月、容堂は大老井伊に圧力をかけられて隠居し、16代藩主には豊範(15歳)が就いた。10月、容堂は朝廷と通じて幕議に逆らったとして謹慎を命じられ、文久2年(1862)4月に赦されるまで品川の鮫州(さめず)別邸に幽居した。

■東洋の藩政復帰
この土佐藩の非常時に藩政を任されていたのが安政5年(1858)1月、家老福岡宮内・側用役小南五郎右衛門の尽力で参政に復帰した東洋である。東洋は大老井伊による一橋派処分が始まり、容堂も安泰ではないと察すると、江戸に上って容堂の隠居・豊範の家督相続が無事にすむよう周旋した。無事に隠居・家督相続が認められると、次に補佐をした家臣の罪を問い、小南を家禄没収・追放にするなど要職の処分を行った。平尾道雄氏(『吉田東洋』)によれば、この処置は幕府の干渉を避けるために容堂東洋が予め決め置いた手段であり、結果、土佐藩士は安政の大獄による責罰を受けることがなかった。
【関連:「開国開城-戊午の密勅と安政の大獄」】

■東洋の藩政改革(安政6〜文久2)
東洋容堂の信頼を背景に若年の豊範の補佐を務め、文久2年(1862)4月に暗殺されるまで、様々な藩政改革を行った。その中には、身分制度の厳しい土佐藩の武家格式の簡素化、教育・海防の振興(大坂警備のための住吉陣営建設、上士だけでなく下士・軽輩にも開かれた藩校文武館の建設、洋式銃砲の購入など)、西洋技術の導入(藩士の長崎・薩摩遊学、山田馬次郎の万延元年遣米使節への派遣、藩校での洋書教授など)等が含まれる。(「余話」「東洋の航海遠略策」)

また、東洋は改革実行のため、人材登用を積極的に行った。後藤象二郎・福岡孝弟・板垣退助(乾退助)などが頭角を表したのもこの頃である。しかし、隠居豊資の支持を背景に改革に反発・抵抗する保守派は、東洋ら改革派を「新おこぜ組」と呼んで敵視した。
万延1
(1860)
■容堂、文通・面会を許される
万延元年3月、桜田門外の変が起り、大老井伊直弼が暗殺された。9月、幕府は容堂の謹慎を解いた。ただし、対面・文通の自由は認められなかった。
文久1
(1861)
■土佐勤王党の結成
文久元年8月、白札(上士と下士の中間)武市半平太(瑞山)が土佐勤王党を結成した。江戸に遊学していた武市は住谷寅之介(水戸)、樺山三円(薩摩)、久坂玄瑞(長州)ら諸藩の尊攘激派と知り合い、土佐藩でも同志を組織化しようとしたのである。旧知の坂本龍馬・平井修次郎を含め、190余名が加盟し、一大勢力となった。土佐勤王党は大部分が郷士を中心とする下士と庄屋であった。

■勤王党の挙藩「勤王」と東洋・容堂の公武合体の対立
勤王党の課題は挙藩勤王(攘夷)だった。これは薩長の同志との密約だった。半平太は薩長に遅れぬよう藩庁に重ねて進言したが、東洋は書生論として退けた。東洋は容堂同様、開国・公武合体を支持しており、藩政改革もその方針にそって行っていたからである。
文久2
(1862)
■坂本龍馬・吉村虎太郎の脱藩
島津久光の率兵上京の知らせが届き、坂本龍馬・吉村虎太郎が相次いで脱藩した。

■東洋の暗殺と藩庁の刷新(改革派後退)
東洋主導の藩政改革は保守派の抵抗にあいながらも着実に進んでいた。文久2年に入って、2月に文武館が完成し、3月には文学・武芸の芸家世襲制度が廃止され、諸士の格式・身分制も改められた。4月5日には文武館で始業式が行われた。しかし、東洋を邪魔者とみなす武市は保守派と結託し、8日、刺客を送って東洋を暗殺してしまった。藩法によって家名は断絶となった(涙)。東洋の死後すぐに、保守派・勤王党の工作によって藩庁からは改革派が退けられ、保守派が実権を握った。

■京都政局への進出

■攘夷督促別勅使の東下
(2004.1.21、1.23、4.17

主要参考文献:
『維新土佐勤王史』・『土佐藩』・『人物叢書山内容堂』・『人物叢書吉田東洋』・『高知県の歴史』
『武市半平太』・『坂本龍馬』・『中岡慎太郎』・『明治維新人物辞典』

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