文久2(1862) |
<要約>
江戸での幕政介入に成功して目的を達した薩摩藩国父島津久光は、勅使に先立って江戸を出立し、帰京の途についたが、その行列を乱した英国人3名を久光の従士が無礼討ちにして殺傷するという事件が起こった(生麦事件)。イギリスは猛烈に抗議をし、幕府と薩摩藩に対して犯人の身柄引渡しと賠償金支払いを要求した。幕府には種々議論が起ったが、老中格小笠原長行の決断で文久3年5月、10万ポンドの償金を支払った(生麦償金交付)が、なお、薩摩藩は英国の要求を拒み続け、7月に薩英戦争が起った。 |
将軍:家茂 | 後見職:一橋慶喜 | 総裁職:松平春嶽 |
幕政参与:松平容保 | 首席老中:水野忠精 | 老中:板倉勝静 |
天皇:孝明 | 関白:近衛忠煕 |
◆生麦事件文久2年8月21日、江戸での幕政介入に成功して目的を達した薩摩藩国父島津久光(こちら)は、勅使大原重徳に先立って帰京の途についた。行列が神奈川の生麦村にさしかかったとき、馬に乗った英国人貿易商のリチャードソンら4名と遭遇した。彼らは、大名行列にあったときの礼儀を知らなかったため、馬から降りず、騎乗のまま久光の一行と行き合って行列を乱してしまった。従士の奈良原喜左衛門らは無礼討ちとしてリチャードソンらに斬りかかり、リチャードソンを殺害、残りの3名(うち1名は女性)にも重軽傷を負わせた。、事件の起こった場所の名をとって「生麦事件」と呼ばれている。久光は行列を止めることなく保土ヶ谷宿に入った。外国の報復に備えて警備を厳重にすると、神奈川奉行(阿部正外)と幕府に事件を届け出た。阿部は、事情が明確になるまでは滞留するように要請したが、久光一行は、沙汰を待たず、京都に向かって出立した。 ◆幕府の反応生麦事件について知らされた幕府には、「ことさらに外国人を斬って幕府を苦しめようとしたのだ」という見方が多くあり、「久光を追撃すべき」あるいは「直ちに行列を差し止めて下手人を差し出させるべき」との強硬意見もでた。将軍後見職の一橋慶喜は穏健な手段をとることにし、京都において下手人を出させようとしたが、薩摩藩は「足軽岡野新助の仕業だが現在行方不明」と命令に応じなかった。◆英国の要求と幕府の対応事件後、英国代理公使ニールは、幕府に犯人逮捕を要求したが、一向にその気配がないので業を煮やし、翌3年2月、英国艦隊8隻を横浜に入港させ、武力を背景に、謝罪と10万ポンドの償金を要求した。さらに、艦隊を薩摩に派遣して直接薩摩藩と交渉し、犯人の捕縛と斬首及び償金2万5千ポンドの支払いを要求することを通告した。幕府には種々議論がありましたが、老中格小笠原長行の決断で文久3年5月、10万ポンドの償金を支払った。(参照:生麦償金交付)◆薩英戦争へしかし、薩摩藩は賠償金支払いを拒み続け、文久3年7月、薩英戦争が起こった。(参照:薩英戦争) |
生麦事件こぼれ話・ ●神奈川奉行阿部正外は、居留地の各国領事に対し、21日に島津久光の行列が東海道を通るので外出を控えるよう求めていた。 ●久光は、江戸滞在中に、「外国人がもし行列に無礼をはたらくことがあれば、国威を汚されないよう臨機応変の処置に及ぶだろう」と幕府に届出ており、「習慣が違うのだから穏便に」説諭されていた。 ●事件を知った居留地は大騒ぎとなり、横浜停泊中の艦隊からは武装水兵が上陸して米国領事館(本覚寺)その他の警戒にあたった。彼らは激昂し、保土ヶ谷宿に入った久光を襲撃して捕えようとの強硬意見も出たが、英国代理公使ニールの説得で自重することになった。一方、保土ヶ谷宿の奈良原・有村らはその夜のうちの外国の報復を予期し、先手をとって居留地を襲撃しようとしたものの、大久保一蔵らの説得にあい、断念した。 関連:◆文久2年8月21日(1862.9.14)−【江】生麦事件(1)島津久光一行、勅使に先立ち江戸を出立。生麦事件を起こす 8月22日−【江】生麦事件(2)勅使大原江戸出立、春嶽・小楠の生麦事件対策3案 8月23日−【江】生麦事件(3)英国、犯人逮捕を要求、春嶽、生麦事件処理をめぐって幕府に失望 8月30日−【江】生麦事件(4)英国側、老中板倉邸で犯人引渡しを要求/松平容堂に国事周旋の沙汰 おすすめ小説:『生麦事件』(吉村昭) |
更新日:2002/5/17
<主な参考文献>
『徳川慶喜公伝』・『大久保利通日記』・『官武通紀』・『維新史』 |
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