古い「人生の目的」というファイルの中に次のような「釈尊の言葉」なる一文が見つかった。多分何かで読んで,メモ書きしたのであろうと思うが,今日は妙にこれが心に響く。
「人は,苦をいとい,幸せを求めている。だが,金を得ても,財を築いても,常に苦しみ,悩んでいる。王や貴族とて,皆同じである。それは,なぜか。苦しみの原因を,正しく知らないからである。金や名誉で,苦しみはなくならぬ。無ければ無いで,苦しみ,有れば有るで,苦しむ。有無同然である。毎日を不安に過ごしている。たとえば,子供のない時は,ないことで苦しみ,子供を欲しがる。しかし,子供があればあったで,その子のために苦しむ。この苦しみの原因は,どこにあるのか。それは,己の暗い心にある。熱病の者は,どんな山海の珍味も,味わえないように,心の暗い人は,どんな幸福も,味わえないのだ。心の闇を解決し,苦しみから脱するにはただ仏法を聞くよりない。この法を求めよ。心の闇が破れ,真の幸福が,獲られるまで。たとえ大宇宙が火の海原になろうとも・・・
幸福と感じられる心をもつこと。
生きる意味を感じないのも,生きる意義を求めるのも,心に不幸を感じるからなのである。不幸な心(暗い闇の心)には幸せであっても幸せとは感じられない。」
つまり「人生の目的」を求めるのは不幸(暗い闇の心)であるからなのだ。ひたすら仏法を求めると,幸福を感じる心をもてる。そうすると人生の目的や意義を求める暗い心から脱することができるということのようだ。不思議と今日はこれが心に響く。(2008/5/24)
「苦しみを脱するにはただ仏法を聞くよりない」の一文で,これは浄土真宗の教えだと分かった。常々疑問に思ってきたのだが「仏法を聞くよりない」といことが私には分からない。調べてみると親鸞の話を聞く会があちこちにある。宗教団体でそんなすばらしい話が聞けるのなら,ネットで公開してくれればいいのにと思う。でも聞いたら最後呪縛から逃れられなくなったりして。何かきな臭さを感じてしまう。(2008/12/6)
人は生まれそして死ぬ。それは絶対の天地の決まり事だ。老いと死。人はだれもその定めから免れることはできない。(手塚治虫:「火の鳥」より)
人間の最大の本能は,自己の生命を維持することにあるから,どんな苦境に追い込まれても人間そう簡単には死なないし,死ねないものである。(立花隆)
一生懸命な人生を強いられている人々から,不安を少しだけ和らげる,この本はそんな存在であってほしいと思いました。ほんとうの話,読者には生きてほしいと思っていたのです。(鶴見済:「完全自殺マニュアル」より)
僕みたいなやっかもんが長生きするさかい,みんなに迷惑かけるんや。すんまへんな。(老親)
宋
文洲という人の文「失うことの重要性」を読んで考えています。氏は失うことを経験していないと不幸になるといっています。不幸は常に他人との比較から足りないものがあると不幸と感じます。家族も家も何もかもなくすと,家族がいることだけで幸福になれるというのです。確かに病から生還した人の話は幸せに満ちています(全てではないけれども)。どん底を経験すれば,ちょっとしたことに喜びを感じれるでしょう。ところが今は失うという体験がないため,得られることがあたりまえになり,どれだけ与えられても幸せを感じることができなくなってしまっている。外から与えられる制度の問題ではなく,幸せを感じれる力があるかどうかだというのです。
そういえば,私はある精神科医に(何かがあるとすぐ落ち込む私を評して)「プライドが高いから,失敗することが怖くて逃げてきたからだ。どうしようもない,逃げろ逃げろ」と言われたことがあります。そう言われても,私は正直逃げ切れず,路頭に迷う事態に陥りました。まあこのことは,「心の窓」で詳しく書くつもりですが,人生やはりどこかで決断し努力する必要に迫られことは何度かあるのでしょう。宗氏は,幸せを感じれるかどうかは,それまでに失った経験だと言うのです。多分逃げててはダメで,敗北の体験がその後の幸せ感につながるのでしょう。
NETである手術体験者の話がありました。同じ病で年取った女の人がやってきました。その女性は手術を嫌がり泣いて暮らしていたようです。男性はすでに人工肛門の手術を済ませていました。女性はそれが嫌でたまらない。そんな時男性は
「もっとひどい病気の人もいると,と考えるとそういう人たちに気の毒になります。こう考えたらどうでしょうと提案します。あの婦人はひょっとして家で主人との関係で悩んでいるかもしれません。向こうのご夫婦はひょっとする子どもとの関係で悩んでいるかもしれません。人間誰でも何らかの悩みを抱えているものです。今私たちは人工肛門のことで悩んでいます。それも一つの悩みです。でも幸せそうに見えるあの人たちも多分人に言えない悩みを抱えていると思います。内容は違っても何らかの悩みを持っているものですよ。今までの人生でも常に何らかの問題を抱えてきたわけですから。それが今は直腸手術というものに,たまたまなったのに過ぎません。その人から見れば,ひょっとして,その方がいいと思われるかもしれません。人間には常に悩みが付きまとうのです。そういうものどうしで,助け合っていかないといけないと思いますよ」
というような話をして,その婦人と話す機会が増えたと言う。相対で見るのではなく,みな見せないだけで悩みを抱えている。見せないだけで不幸に悩んでいる。自分の不幸も失敗も経験すると幸せを感じられるようになる。何かわかるような気がするな。
人それぞれがいろんな悩みを持ち失敗し,そうした痛みをわかったものだけが小さな幸せを感じれるようになるのだ。やはり逆境とか失敗は,体験して初めて幸せを感じれるものなのだなあと思う。
ここに生きる目的があるのだろうか。それはわからないが,何かの一助はあるような気がする
。
長野県キョウデングループ会長
橋本浩(56)。裸一貫から年商3000億円の企業再生のプロとなった。ここまでの境地に達したら,人生はおおらかにすごせるだろう。
「(格好つけるわけじゃないけど)人生なんてのは,所詮暇つぶしですよ」
ある掲示板から
さほ:2010/03/12(金)02:22:31
自殺未遂数え切れないほどして、何度か死にかけた人間です。
最初に、これは自殺したい人への批判ではない事だけ言っておきます。
色々な方法試して何度か集中治療室に入った身として言うとですね、本当に死にたい時って、考えるより先に勝手にやっちゃうんですよ。もう、何ていうかこう、気が付いたら病院?みたいな感じでした。
死にたいと考えている内はまだ少し何か未練がある事が多かったです。それについては、自分で気付いていないとかもあるんで様々ですけど。
だからつまり、本当に死にたいって時は、考えている時にはもう死んでます。助けられちゃう事もあるけど勢いが違うから。失敗する度に何で死ねなかったのと思っていたけれど、今なら分かります。
2年前にある きっかけがあって自殺願望から目を背けるようになりました。それでも時々襲ってくる衝動はあるし叫びたいくらい怖くなる事もあります。だ
からこうして書き込みしに来たりもしています。完全に吹っ切れている訳ではないけれど毎日何とかいなしている感じです。
どうした ら死ねるのか考えている時間は楽しいですか?自分が消えてしまえる、この世界から逃げられる、そう思うと楽しくないですか?私は楽しかっ
たです。凄く幸せでした。でもあえて今はその時間を捨てました。ちょっと響きが違いますね…捨てようとしています、が正しいです。そ
う考えるようになるまで二桁の年数を費やしました。今までの人生の殆どです。今更ですが這いつくばって進んでいる感じです。
死に たいけどどうしたらと考えているならまだ死ねないですよ。だってまだ生きている(生きたがっている)のですから。心配しなくても考え込ま
なくても、本気になった時はもう死んでいます。
最後に、どうしてそんな事を言う私が生きているのか、何で失敗したのか。色々ある
のですけど挙げてみると単純なんです。状況は様々ですが…
【たまたま通りかがった人がいて助けられた】
【運ばれた病院の医師の処置が良かった】
【心配した家族・友人達が監視していた】←※後で知りました
【若くて基礎体力があった】
大体こんな感じです。体 力については今はもうガタガタなので、多分同じ事をしたら死ぬでしょうね。
私は頑張って生きて下さいとは言いません。
死にたい理由は人そ れぞれ、決めるのは自身の本能と偶然と必然です。
ただ、心から死にたい時はもう死んでいる、という事を知っていて下さい。
人はいつか,多くは思春期・青春期といわれる時期に「人はなぜ,生きるのか」「人が生きるということはどうなんな意味があるのか」「人が生きる目的は何か」という疑問にぶつかる。しかし,ある者は,その答えを見い出せず苦悩し,答えを求めることをあきらめる。ある者は宗教に答えを求める。そして多くは「生きる目的・意味」ではなく「如何に生きるか」という生き方をもってしてその答えとする。
@答えのない問題である。(だから,放棄するかBを答えとする)
A生きることは神を信ずることである。(宗教に頼る)。
B生きる目的を「よりよい生き方」と解釈して,よりよい生き方を生きる目的だとする。
私はどれにも満足はしないが,人知の及ぶ世界ではないような気もする。ある意味,神から科せられた,解けない問題なのである。それでも考えざるをえない。人間に関心をもたせる問題なのである。生きる喜びも,生きる悲しみも,生きる苦悩も,こうした問題が心の片隅にあるからであろう。解けない謎に死ぬまで付き合っていくことになるだろう。
ある時この問題に解決をすべく「人生の目的」というサイトを見つけた。人は人生の目的をもつことが必要であることが,盛んに説かれている。そうなんだよ,だから答えは?結局親鸞上人の何とかが分かること,するとえも知れず人生の目的がわかると言うのだ。最後まで読んだが結局宗教のベールで最後は覆われており,私には理解できなかった。生きると言うことを考えると私には黒沢明監督の「生きる」と,チャップリンの「独裁者」を思いおこす。しかし不幸にも私には「よりよい生き方の答えでしかない。」過去に多くの文学者が「人は如何に生きるべきか」を模索し,小説という形で発表してきた。しかし,私が求めるのは生きる意味であり,生きる目的なのだ。「人はなぜ生きなければならないのか」。
いつか小椋佳氏が「答えのない問いなんだ。」とテレビで言っていた。「答えがないから,死のうかというと,それをどこかで引き止めている。」つまり,死のうとしてもそこには抵抗している自分がいるのである。ならば,答えがないのだから,生きることを放棄しても,非難するには値しないことになる。人は死を恐れ,宗教に救いを求める。現実には年老いた親の介護疲れで死に至らしめることも多くなっている。どう考えても「如何に生きようも」生きる術がなく,その目的もないとき,人には死しか答えがなくなる。こうした死に対し,誰も非難することが出来ない。もし,非難するのなら心底納得のできる「生きる目的を示して欲しい。」それは多くの悩める人を救えることであろう。答えのない問いを抱えて・・・
【三島由紀夫】
美意識と政治的行動が深く交錯した三島由紀夫は大義という言葉をよくつかった。「大義のために生きる」「大義のために死ぬ」など。大義とは「国家・君主への忠義であり,人として守るべき道義」とある。「生きるのも自分のためだけに生きるのはすぐ飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが出てくる。生の倦怠=自分のためにだけに生きるほど人間は強くない。大義のために死ぬことが英雄的な立派なこと。民主主義は大義を必要としない。」
生きることではなく,死ぬことの目的を考えた。大義のために死ぬのだと。そうして三島由紀夫は,1970年(昭和45年)陸上自衛隊東部方面総監部に乱入割腹自決する。
三島由紀夫にとって自分のためだけに生きるという考えは否定されている。そうなると,普通は,世のため,人のためといわれるのだが,それが彼の場合は大義なのである。だから「大義のために生き,大義のために死ぬ」のだ。ただ,「大義だ,忠君,愛国だ」と言われても,私にとっては言葉であって,心に食い入る事はない。
【藤村 操】(ふじむら
みさお,明治19年(1886年) - 明治36年(1903年)5月22日)
一高1年生(数え18歳)日光の華厳滝において,傍らの木に「巌頭之感」(下記)を書き残して自殺。厭世観によるエリート学生の死は社会に大きな影響を与え,後を追う者が続出した。
悠々たる哉天壤,
遼々たる哉古今,
五尺の小躯を以て比大をはからむとす,
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ
萬有の真相は唯だ一言にして悉す,曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶,終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで,
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る,
大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。
私はこれを「人生不可解也」と解釈して,自分に言い聞かせていることがよくある。時代的な背景もあるが,厭世観,そして何よりも「世界に益なきこの身であることを悟りましたから」と遺書にあることから考えると,「人は世界に何らかの益をもたらすために生きている」と考えていたものと思う。詳しくは「竹中一男氏のHP」第7章「藤村操の死」を参照されたし。
<以下はまだメモ書きです>-------------------------------------------------
幸せ探し,自分探しという言葉が流行っている。
でも幸せって探して見つかるもんじゃないとないと思う。
自分を探したって,見つかるもんじゃない。
だって自分は,自分で創るものであって,
どこかにあるものじゃないから。
だから,幸せ探しや,自分探しは
自分を創る事以外に道はないんだ。
人は何のために生きるかといういうと,
自分を創ること,自分を磨くことなんだ。
何か今はそう考えている。
ある東大生の悩みNHK「一期一会」で『自分の存在価値がない』と悩む東大生。東大までは成績が一番であることに存在価値を認めていた。それが東大へ入ったら自分よりできるものがいる。そこで自分の存在価値を見失った。考えが狭いんじゃないの。贅沢な悩みだね。親や先生の言うことを聞いて,自分のことは我慢するいい子だった。でも,時々良い子でいいんだな。ぞんざい意味は良い意味で答えわかんないからいいや。やっぱ解決はついていないが,楽しい時間を過ごしたことで,楽しむということ(人によい子といわれるんじゃなくて)が分かったのかなと思った。でも,これって多分また人生の意味を問い直す時がくると思う。刹那の楽しみが心底楽しめたらなくなるかもしれないけども。ただ,イチエ君たちが「明日死ぬかもしれないし,だったら今の幸せをかみしめて,今を楽しく生きなきゃって考えてたら楽しくなってきた。」イチゴ君「俺の幸せを望んでいる人はいるんだろうな。その人が死ぬ前に幸せにならなきゃ」イチエ君「100パーいるでしょう。すでに俺もベルも,三浦っちの幸せ望んでいるから。」「まじ!」変だよな。人が望む幸せと自分が望む幸せがごちゃ混ぜになってないか。自分が幸せにならないと,人を悲しませるからって考えると,良さそうだけど,それって偽善じゃないの。自分で実感できる幸せならそれはいいんだけどね。
がん患者:がんだ,いつ死ぬんだ,どうしたらいいんだ。悩みの日々。そんな時の夫の言葉「死ぬまで生きればいいんだ。」不安にとらわれている日々。逆に不安を捉える日々。文を書く,家庭菜園,旅,歌を歌う・・・何かをしているうちに元気になる。その元気が生きる源。そうして,死ぬまで生きていけばいいんだ。そう考えるとすーと不安が消えていく。時には「がん」が消えない時もある。でもそれはそれで良い。
生きる=生きることを放棄することは悪
事故死,病死は=死ぬことは罪ではない。
人は家系という連綿たるつながりがあって,その中で命が育まれる。死のうと思うことはそのつながりを断つことである。死ぬということは本人だけではなく,家族にまでその死が及ぶ。でもそれは生きることの意味とは関係ない。
いじめに負けて死ぬことはない。生きるという方向に心を思って欲しい。(伊吹文科大臣)そう言ってみたところで何にもならない。そこには生きる方向に心をもっていくすべもないし,目的もない。私には,自殺したくても出来ないが,それは勇気がないからであって,生きることの意味がないと確信できれば,死者に言うべき言葉はない。生きることの意味がないことの照明を検証したい。
生きる。赤ん坊を授かるということは,実に神聖なことであって,ほとんど偶然に等しい確率で生命が誕生する。その時,生命の誕生は,いつかはその生命も,死に遭遇するという,避けようのない事態に遭遇するということだ。生まれるということは,どれだけか先に死をだかえているということだ。この事実を重く受け止めなければならない。つまり,親として子どもに,「生まれてくれてありがとう」ではなくて「あなたが生まれたことにはこういう意味があるんだよ。こういう目的があるんだよ。」ということを教えてやれる必要がある。
なぜ人は苦しくとも生きていかなければならないのか。
酒のつまみにちょっとほろ苦いものを求めるように,人生にもほろ苦いものが必要なのかもしれない。あまりにも純粋に清く美しい人生を考えていると,息がつまり,ストレスが溜まり,明日への活力がなくなって,人生の最期を夢見るのかもしれない。
人間はなぜ生まれるのか・・・それはこの世で修行をするからである。我々が背負ってきた課題。それをこなすために日々の艱難辛苦が与えられるが,それすらも,自分が選んで生まれてきたのだ。(マイケル
ニュートン)
ある年齢を過ぎたら新しいものから取り残される。そんな恐怖に支配される人は多いのではないだろうか。「自分はひょっとしたら時節に取り残されたゴミなのかも知れない・・・」
謙虚というべきかシャイというべきか,小心者なのである。
いや,そんな謙虚さではない。もっと自分勝手な理由かもしれない。
それは年を取って,端に自分には残された時間がない,人生はもう終わりだ,というあせりではないだろうか。試合終了の時刻が迫っているのだ。
しかもあと10分で一点ビハインド。あれっ?やっぱりオレの人生「負け」試合?
いずれにせよ,人生で与えられた時間は有効に使わなければならない・・・ったって無理だよな。(南淵明宏
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