うつ病はよく「心のかぜ」だといわれる。かぜと同じくらい,誰にもなりやすいという意味である。現在は教育界のみならず,うつ病で悩んでいる人は多い。NHKテレビでもしばしば取り上げられており,有名人の中にもうつ病になった人が多いことに驚いている。最近では民間会社でもカウンセリング体制が充実しつつあり,教育界にも表面上はそういう体制が整ってきている。しかし,現実にはどこまでフォロー体制がとられているかは,はなはだ疑問である。例えば「うつ病者」は「仕事を辞める」とか「死にたい」と思い,誰にも相談しないで実際に実行に移すことも少なくない。私の場合も「死にたい」「辞職したい」という気持ちが強く出た。普通「うつ病」のときはそういう考えが強く出るので,決断は病気が治るまでしない方がいいという。しかし,そういうことが分かっていても「辞めたい」という気持ちになる。そうでなければ「死ぬしかない」と考えてしまう。もし,うつ病で「辞めたい」と言って,「ちょっと待て・・・」と話を聞いてくれる管理者がいたら,よほど「うつ病」に対して理解のある人だと思ってよいと思う。うつは他の病気のように痛みとかの症状があるわけではなく,仕事もやれないわけではない。ただ能率は上がらず,そのことで自分を責め,苦しみ,悩むのだ。他の人に迷惑をかけているという自覚もあるので,相談するより「何とか迷惑をかけないように」と思い,人に相談することも少ない。私の場合は,体のだるさと早朝覚醒が続き,こじれたかぜだと思っていた。そのうち仕事の意欲もなくなり,疲れもひどいので病院へ行った。詳しくは後述するが,2人の医師には,はっきり「うつ病」と言われた。そしてM医師には「抑うつ状態」との診断が出た。私は50代で,定年前に辞職する決心を固めていた。とはいっても心の中では「辞めたい。辞めてはいけない。」が逡巡している。でも,やっていく自信はない。管理職に話をすると,それじゃ「病休をとって,今年度で辞める。そうすれば勧奨退職になり退職金が増えるから。」という結論になった。しかし,実際には定年まで勤めることが出来た。ひょっとすると途中退職にすれば,自責の念が強くなり,もっとひどくなったかもしれない。したがって,定年まで勤め上げることができたということは,小さな自信にもつながっているような気がする。それどころか最後の7年間は,困難はあったが,それまで以上に充実した生活を送れたような気がする。どうして中途退職しないで,定年まで勤め上げることが出来たか。これはM精神科医のおかげと感謝している。
うつ病のサイトは結構多い。精神科医が管理していて相談に応じてくれるところもある。しかし,自分の体験から言うと,医学的に書いてあるところは同じような内容になり,個別のものはどことなく自分と違い,違和感を覚える。大体が本当に鬱な状態になると,何もする気は起きない。好きな音楽を聴こうとか,友達と会うことさえも気力がなくなる。最悪食事をとろうという気力もなくなった。私の場合は,ネットを探したり,本を見たりできたのはちょっと調子のいいときであって,そうでなければ黙って机に臥せっていた。そして調子のいいときでも,見れるネットや本は自分の環境や症状に近いものでないと参考にならない。というより本来「うつ病」は読書などで自己治療できるものではない。ただ,気休めというか,慰めにはなる。何かにすがりたいという気持ちからだろう。そういう一助となれば幸いである。
精神的な病には先天的な部分と生育過程(後天的な部分)がある。うつ病はどうなのかまだ不分明ではあるが,私の場合,性格的なことは関係があると思うので多少述べておく。
幼少時はとにかく病弱な子であった。姉に言わせると2回生死の間をさまよったようである。一度は私の記憶にはないが,もう1つははっきりと記憶している。とにかく鼻血が止まらず,1日に医師が3回往診に来た。それでも血は止まらず,鼻に押し込まれた綿は洗面器にいっぱいになり,2回ほど取り替えた記憶がある。夜遠くの知り合いの医師に来て貰い,結局鼻の奥の血管が切れていたということだ。ただ小学生のときで,自分で生死をさまよったという気持ちはなかった。
それよりも就職して少しして不整脈で入院した時のほうが記憶が生々しい。当日は朝から気分が優れず,休もうにも日直の仕事があり,無理して出勤。でも「かぜ」ぐらいにしか思っていなかった。主任に保健室に行くよういわれ,ベットにのった瞬間眠りこけた。医師の注射で目が覚める。何とか血圧が100を超え病院へ行く。どうも本人の思いとは違って,相当青ざめた顔だったらし。みんなに声をかけられる。病院ではすぐに車椅子が用意された。病室から車椅子で検査。何か機械をつけられ,注射をされる。医師の言葉は「おかしい。おかしい。」である。「あなたは一生,病院暮らしになるかもしれない。」と言われた。後で分かったのだが,ものすごい不整脈であった。運動の後より速くなるかと思うと,止まってしまうのではと思うほど遅くなる。でも,そんなに深刻には受け止めていなかった。夜大学病院の医師が来て注射をしていった。次の日から検査が午前中続いた。でも原因は分からなかった。
何かと病弱で,高校のときは毎日のように下痢に悩まされた。病院へ行っても特に異常はないとのこと。下痢は退職して酒を止めるまで続いた。胃腸薬は常備薬であり,養命酒,ヤクルト,大田胃散,ビオジアス,正露丸,キャベジンなど,いろんな薬を飲んだが一向によくはならなかった。
小学校から高校までは貧血で倒れることもよくあった。小学校のとき裏庭で石をどけたら,アリの巣があって,そこからアリの大群が出てきたのを見て貧血で倒れた。それがトラウマになったのか,スイカを切った時の種の多さからアリが思い出されスイカは食べられなくなった。高校の頃は「あっ,貧血で倒れそうだ。」と自分で分かって,すぐ横になるようにした。それで回復したのだから。その頃は増血剤を飲んでいたことがある。
性格はよく言えばおとなしく,悪く言えば小心者である。それでいて自分の意志を曲げて,人の言いなりになるのは耐えがたく,これがものすごいストレスになる。高校の時から始まった下痢はこの性格によるところが多いのではないかと思う。ただ,高校は好きなステレオ製作や,レコードを買って音楽を聞きいたりで趣味も広がった。ちなみに中学のときは小説を読むのが好きで,ドストエフスキーの「罪と罰」のダイジェスト版を読んですごく感動した。図書の司書の人と知り合い「岩波文庫なら悪い本はないからどれを読んでもいい。」と言われ,文庫本をよく買った。当時★一つ40円だった。おかげで旧字の本が読めるようになった。そういうこともあるのか,自意識が高まると,納得できないことをやらされるのはものすごい苦痛になった。当時はそんな意識はなかったのだろうが,今思うとそういうストレスが結構溜まっていたと思う。しかし小心者だから(頭が悪いということもあるかな)言い争っても負ける。ますますストレスは溜まる。こんな性格は自分では嫌なのだが,どうにもならない。こうした性格を直視するようになったのは,精神科のM医師に「負けることを避けて生きてきたからだ。」と言われてからである。その時は頭にきたが,今になって思えば,そういう性格(優越感を持ちたいのだが,もてないので,劣等感の塊になっている)だったのだろうと思う。
・楽天家ではなく,むしろペシミストである。が,時に人に「楽しい人だね」と言われることもある。
・人に言うより,自分で悩みを抱え込み,自分の我慢ですむのなら,我慢する方。
・多趣味(音楽,読書,オーディオ,パソコン,アンプからラックまで製作,車など)のつもりだったが,退職後意欲減退で,HPとかBlogをかろうじてやってる程度。
初任を終えて次は中学校だった。一応希望もあってのことであったが,思いと現実の違いに唖然とさせられた。
単に,中学という思春期に入った子どもたちとの共同社会のようなものを,夢見ていただけなのだろうか?現実は宿題と試験の嵐で考える暇さえないと思った。授業が終われば,即部活。そう,現実は部活動と進学のみであった。教える教科の内容は中学での学習内容だが,それをどう教えるかは難しい。教育というと教える事柄があってそれを易しく教えるというものではなく,教師は,子どもが楽しく自ら学び取るかのように進めなければならない。でも,私は自分ではそんな経験はない。一方的に教えられ,分からなければ自分で分かるようにしてきた。それでも分からなければ,参考書とか,人に聞くとかで育ってきたような気がする。一意的にそう考えることに私は反対だが,今の教育界はそう動いており,そこに教師の力量が問われている。これは非常に難しいことであり,日々の教材研究に使われる時間は膨大なものである。ところが,会議は時には真夜中の12時を過ぎる。バス通勤の私にはもう
以下はメモ書きです---------------------------------
鈴木宏先生は1971年、福島県生まれ。
89年福島県立医科大学医学部に入学。大学時代にはキックボクシングにも励み、93年プロデビューを果たした。2004年8月、キックボクシングを引退。その後、新たに精神科医としてスタートを切る。アメリカの心理学者エイブラハム・マズローの欲求五段階説というものがある。この説によれば、人間の欲求は、第1=生存の欲求、第2=安全の欲求、第3=帰属の欲求、第4=尊敬の欲求、第5=自己実現の欲求という段階を、下から一つ一つ実現しながら上っていくという。
第1、第2の欲求くらいまで満たせれば、生きていくことはできる。だが、誰もが最終的には、第5の自己実現の欲求までを満たしたいと思ってしまう。この
説の全てが正しいわけでもないだろうが、多くの人たちはこの中のどの段階の欲求の中にいるのだろう?第3の帰属の欲求あたりの葛藤に苦しむ患者さんが多い
だろうか。
私がみてきたスポーツ選手などは、全ての欲求を通り越して、自己実現の欲求を追い求めているかのように見える選手もいる。だからこそ、それをクリア出来
た人は輝くのであろうが、そこに辿り着けずに、その手前で助けを求めにやってくる選手もいる。欲求と結果は諸刃の剣だ。目標が高い人ほど、結果に打ちひし
がれてしまう。
古代ローマの政治家、思想家であり詩人であるセネカは、「人生の短さについて」の中で、
「生きることの最大の障害は、期待を持つということである」
と言った。期待を持たなければ、障害は起きない。期待は諸悪の根源なのかもしれない。仏教でも、無欲になれとはよく言ったことだ。
人間、欲をなくしたらお終いだというのもよく聞くことだが、欲も期待もなくして、楽に生きるのも、ときには良いことなのかもしれない。きっと、悩みが消えてこころが楽になることなのだろう。
ストレスはある意味人間には必要なものだそうだ。それを克服しようという,気力のようなものが生まれる場合は,多少のストレスはいいかもしれない。しかし,ストレスは多くは気力を奪うのである。気力がなくなるとがなくなると,抑うつ状態になる。だから私はストレスにいい結果はないと考えている。ストレスではなく適度抵抗と言う言葉がある。克服しようとしてもなかなか克服できない問題。これが解けた喜びは大きい。例えばホームページを作っていてこうしたいと思っていることがあっても,なかなかできない。いろんなソースを見てそれでも解決しないこともある。それがスタイルシートで解決したりすると,たったこれだかけのことで・・・と悩んでいたのが嘘のようになるが,解決できた喜びは大きい。こういうときはストレスとは違うと思う。ストレスは気力を奪うが,適度抵抗は(過大すぎて解決できなくとも)気力を奪うことはないのだ。人間関係の中でのストレスは多くの場合,気力を奪う。それは両者の間に思いやる心が成立していないときだ。両者の間に愛があるときは,ストレスがあっても,まだ結びつけるものがあるから気力は失せない。何とか克服したいと思うからだ。しかしその気力を奪うと,聞き合うこと,受け止めること,許しあうことができなくなると,関係を戻すことは難しい。
記憶力=脳も筋肉と同じで鍛えるこtができる。一つの単語を覚えるには,全部の五感を使う。見る,書く,読む,人と言い合う(コミュニケーション),などいろんな手段を使う(茂木健一郎)褒められるとドーパミンがたくさん出る。その直前にやったことがすごい快感になる。だから,何かいいことをやったら,すぐに褒める。正しい変人はコモンセンスをもっていて,変わった一面があるのがいい。みんなのと同じことをやるのがいいのではない。
勉強方=鶴の恩返し勉強方(集中するために人に見られないようにやる。難易度の調節(適度抵抗)。時間を区切って(少々無理ぐらい)てやる。できなかったら調節すればいい。デモできればドーパミンが出て喜びになる。自分の好きなものを,自分にとってちょっと無理な勉強をする。学校の勉強は,いつか役に立つと信じること。根拠のない自信を持つ。よちよち歩きしている時「できるかな」なんて誰も思っていない。自身というよりお母さんのところへ行きたい,あれがほしい,何だろうという興味だけで,根拠なんてない。根拠のある自信なんて初めはないものである。
寝ている間に,前の日の整理をしている。昼とは違うモードで働いている。寝ている間に整理されているので,朝クリエイティブな仕事をするといい。睡眠は90分で深い浅いを繰り返す。浅い時に起きれば気分は言いが,深いときに目覚ましで起こされるのはよくない。
音楽→生命哲学。天才は自分で好きなことを変人といわれてもやる。個性を極める。他人との関係性の海に飛び込むことが大切。
金子みすずの「みんなちがって みんないい」をほめていた。がコモンセンスの上に変人があるというのは分かるが,ハナから全てがちがっていてはコモンセンスの部分もなくなってしまう。だから,義務教育機関は他人とコミニュケーションをとったりして,
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