居城地 | 奥州会津若松。(鶴ヶ城の公式サイトはこちら)。 | |
石高 | 公称23万石(寛政4年の『大成武鑑』によれば全国約19位の高禄、東北では外様の仙台藩に次いで2位となるという)。幕府預け領5万石。合わせて28万石だが、28万石とすると御三家水戸藩25万石より多くなるため、23万石+5万石という言い方をしたという説もある。 | |
人口 | ◆総人口:享保3年(1718)で16万9,000人(『会津松平家譜』) ◆藩士の人口:時代によって違うが、およそ5,000人。藩士と家族数は文化3年(1806)頃で約2万3,000人(『近世会津史の研究・上』)。 *幕末人口は調べ中(ご存知の方、ご一報を!) |
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藩祖 (藩の起り) |
保科正之(ほしな・まさゆき):2代将軍徳川秀忠の第4子で3代将軍家光の異母弟。正之は恐妻家の秀忠の浮気によってできたため、公式に認知されず、信州高遠藩(3万石)保科家で養育されていた。19歳で秀忠と親子の対面を果たし、21歳で養父の死により高遠藩を襲封。26歳で最上20万石に、次いで、寛永20年(1643)、34歳で会津23万石に転封となった。藩地で様々な改革を行い、藩の基礎を築いた。また、異母兄家光に信頼され、家光の臨終時には4代将軍家綱の補佐に任じられ、隠退までの23年間、幕政に参画した。*関連:「歴代藩主略年譜」、「藩政の枠組(1):保科正之の基礎作り」 | |
幕府における会津松平家の格 | ◆大名の分類:親藩−3代藩主正容の時代に松平の姓と葵の紋(会津葵)を使用することになり、正式な徳川一門に。御三家に継ぐ家格。 ◆家紋:丸に三葉葵 ◆江戸城出仕時の部屋:溜間詰(たまりのまづめ)−ほかに彦根井伊家35万石、高松松平家12万石が常溜。*関連:「江戸城の大名控間席格」 |
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藩主の官位 | 従四位下侍従または正四位下左近衛中将:御三家御三卿・加賀前田家に継ぐ。同格には彦根井伊家。(容保は中将で、「会津中将」とも称された)。 | |
藩主の官名 | 肥後守(第2代と第6代は若狭守) *官名は領地とは関係ない。なお、当時の大名等は名前ではなく官名(官位)で呼ばれていた。容保も「肥後守(殿)」と呼ばれていた。 |
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幕末期の 藩主 |
第8代容敬【かたたか】 治世:文政5(1822)〜 嘉永5(1852).2 |
父は公式には6代容住。7代容衆の弟。実は美濃高須9代藩主松平義和(水戸6代治保の次男)の庶子で容住の養子。(略年譜) |
第9代容保【かたもり】 嘉永5.2〜慶応4(1868).2 |
父は美濃高須10代藩主松平義建。容敬の養子。実際は容敬の甥にあたる。 (略年譜) | |
第10代喜徳【よしのり】 慶応4.2〜明治1(1868).9 |
父は水戸9代藩主徳川斉昭。容保の養子。15代将軍徳川慶喜の弟。 | |
藩校 | 日新館(上士対象) *家老田中玄宰の天明・寛政の藩政改革で創設 | |
軍制 | 幕末は長沼流(天明・寛政の藩政改革によって導入)から洋式へ | |
特産品 | 薬用朝鮮人参*天明・寛政の藩政改革によって栽培開始 |
<参考資料>
『会津松平家譜』、『近世会津史の研究・上』、『会津ちょっといい歴史』、『幕末の会津藩』
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