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松平春嶽かけあし事件簿(1)文政11〜安政5年

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文久2(1862)


■文政11(1828) 御三卿田安家に生まれる
松平春嶽(慶永)は、文政11年(1828)、徳川御三卿の田安家当主斉匡(なりまさ)の八男として江戸城内田安邸に誕生した。

■天保9(1838) 16代越前藩主就任
天保9年(1838)、越前15代藩主松平斉喜(なりさわ)の養嗣子となり、斉喜の死去によって16代藩主に就任した(11歳)。春嶽の補佐(教育係)には中根雪江(靭負)がついた。

■天保14(1843)〜 藩政改革
天保14年(1843)、春嶽(16歳)は初入国を前に水戸藩主徳川斉昭(44歳)に藩主としての心得を尋ねた。入国後は、財政再建を中心とする藩政改革にとりかかった。倹約が励行されたほか、教育振興(藩校明道館や洋学所の設置)、軍備改革(高島流西洋砲術の導入・銃陣調練・西洋式大砲小銃の鋳造)、種痘所の設置などが行われた。改革には中根雪江を始め、本多修理・鈴木主税・村田氏寿・由利公正・橋本左内らが門閥を問わずに登用され、肥後からは開明派の横井小楠が来遊した。

■嘉永6〜安政3(1853〜57)鎖国攘夷論から開国通商論へ
嘉永6(1853)年、ペリーが浦賀に来航したが、この頃の春嶽(26歳)は鎖国攘夷論を唱え、海防強化を主張していた。また、攘夷論者として嘱望されていた斉昭(54歳)の海防参与任命を薩摩藩世子島津斉彬とともに働きかけ、実現させた。【関連:開国開城:ペリーの浦賀来航】。しかし、安政3(1857)年、総領事ハリスが下田に着任して通商開国を迫ったとき、春嶽(30歳)は首席老中阿部正弘との意見交換や中根雪江・橋本左内の助言もあり、世界情勢に鑑みて開国通商論に転じた。また、安政5年4月には春嶽(31歳)は肥後藩に交渉して横井小楠(50歳)を政治顧問に迎えた。

【関連:開国開城:総領事ハリス来日・通商開国へ

■安政4〜万延1(1857〜60) 一橋慶喜擁立と隠居・謹慎処分
春嶽は、安政4〜5年(1857〜58)にかけて、13代将軍家定の後継問題で一橋慶喜擁立に奔走し、橋本左内を京都に送って朝廷工作にあたらせた。同年6月、幕府が勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、定められた登城日ではないにも関らず、斉昭らと登城して大老井伊直弼(彦根藩主)を詰問したが、翌7月不時登城を理由に、わずか31歳で隠居・謹慎に処せられた。(17代藩主には支藩の糸魚川藩から松平茂昭が迎えられた)。翌安政6年には左内が逮捕され、処刑された。その後、万延元年(1860)3月の桜田門外の変で井伊が暗殺されると、9月には謹慎を免除された(33歳)。

【関連:開国開城:将軍後継問題と条約勅許問題

注:改元の年は改元後の年号で表記しています
(2003.7.20)

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かけあし事件簿の主要参考文献(リンク先も参照ください):『再夢紀事・丁卯日記』『続再夢紀事』
『徳川慶喜公伝』『横井小楠 儒学的正義とは何か』『人物叢書松平春嶽』『松平春嶽のすべて』『正伝松平春嶽』


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