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松平春嶽かけあし事件簿(2)文久2年(1862)

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文久3

<春嶽35歳、藩主茂昭27歳> 春嶽/越前藩の詳細年表(文久2)
政事総裁職就任と文久の幕政改革
勅使&久光東下と春嶽の幕政参与任命
文久2年4月、薩摩藩主の父・「国父」)島津久光が、公武一和を推し進めるため、軍事力と朝廷の勢力を背景とした幕政改革の断行をめざして、率兵上京した。幕府は対抗策として、久光が京都で入説する事項について、先回りして朝命のでるまえに幕府の意思で実行しようと決めた。この結果、安政の大獄で処分を受けていた春嶽は、慶喜らとともに赦免になり、他人面会・文書往復を解禁された。さらに、5月7日、春嶽は幕政参与を命じられた(こちら)

春嶽は、早速、横井小楠を江戸に呼び寄せるようとりはからった。 また、任命翌日、家茂に謁して国是の決定、開国創業の決意、慶喜の幕政参与を上言した(こちら)。その後、老中らに対し、幕政改革(「徳川之私政御改良」)、将軍上洛の上の朝廷への謝罪、諸侯と協力・「叡慮」遵奉等を主張し、勅命が下る前の慶喜登用を求めた。老中らは、春嶽の主張に敬服したと言いつつも、勅使東下前には将軍上洛決定も慶喜登用も処置できないと拒否した(こちら)

春嶽の総裁職任命
久光と大原は、6月初めに、江戸に入った。勅使大原は、慶喜を将軍後見職に、春嶽を大老に登用せよとの沙汰を伝えた(こちら)。幕府は、抵抗したが(こちら)、度重なる催促に、まず春嶽の大老相当の登用に同意し(こちら)、次いで、6月末、薩摩藩の示威行動もあり、とうとう慶喜の後見職登用を承諾した(こちら)。7月1日には将軍家茂が、慶喜を後見職に、春嶽を総裁職に任命し、政事向きのことを万端相談すると正式に奉答した(こちら)。(大原は8月22日に江戸を出立。先発して江戸を発った久光一行は21日に生麦事件を起こしたこちら

○「幕私」批判の登城停止
春嶽は、勅使到着後も、幕府が「私政」をやめず(「幕府御私政放擲之無故」)、勅命(特に慶喜の後見職登用)に抵抗するのをみて、6月18日から病を口実に登城を停止し、23日には幕政参与の辞任を内願した(こちら)。その後、大目付大久保忠寛(一翁)が「幕私を去るべき」論に同意したため、忠寛を協力者とし、登城再開することを決めたが(こちら)、慶喜の後見職登用が決まり、7月1日に将軍が勅命に奉答した後も、依然引篭っていた。 小楠を待っていたようだ。

総裁職就任と文久2年の幕政改革
小楠が江戸に到着すると、春嶽は、家老らを交えて進退を評議させた。その結果、7月9日、登城を再開し、政事総裁職就任を受諾した(こちら)。小楠の<御出勤の上、「幕の私を捨てられ、是までの御非政を改められ」るよう申し立て、その論の「通塞」次第で進退を決めるべきだ>という意見をいれたのである。

春嶽は小楠を輔佐とし、慶喜とともに、幕閣らの抵抗にあいながらも、ときには登城を停止し、ときには辞職をちらつかせつつ、文久の幕政改革(近代化)を進めた(参勤交代制の緩和と大名妻子(人質)の帰国許可 京都守護職設置を含む職制改革、軍政改革、学制改革、献上物の廃止・行事の改廃・服制の簡素化、山陵の修復、安政の大獄関係者を含む国事犯の大赦など)。

攘夷奉勅
攘夷別勅使の東下
久光は閏8月に帰京したが、東下で不在の間、京都では即今攘夷を求める尊攘急進派が勢力を盛り返しており、わずか16日の滞在で帰国した。9月20日には、攘夷督促のために、新たな勅使が東下することになった(こちら)。勅使は三条実美・副使は姉小路公知で、10月12日に出立した(こちら)。前日には土佐藩主山内豊範が藩兵約500名を率いて出立していた(こちら)。(勅使一行は27日に江戸到着)。

春嶽/小楠の必戦破約(→諸侯会議→自主開国)論vs慶喜の「日本全国の為」の積極開国論
この頃、幕府は明年2月の将軍上洛を決めており(こちら)、慶喜を先発・上京させて開国を上奏させる方針を定めていた(こちら)。ところが、9月19日、春嶽が破約攘夷を主張して、幕議は動揺した(こちら)春嶽/小楠の意見は、条約をいったん破棄した上で諸大名を集めて会議し、天下一致して開港しようする、公議による自主開国を見据えた必戦覚悟の破約攘夷論だったが、老中たちはこぞって反対した。春嶽は<「公共の天理」に基づかず、ただ「幕府の権威をのみ振」おうとするのは、「一己の私」である>と反駁し(こちら)、さらに攘夷の朝旨(長州に下った攘夷の沙汰)も示して説得したが、却って反発を買うだけだった(こちら)

失望した春嶽は登城を停止した(こちら)が、小楠の入説により、まず側用取次大久保忠寛が納得し(こちら)、忠寛の説得で、9月30日、幕議は、ようやく必戦破約論を受け入れる方向に傾いた。ところが、ここにきて、慶喜が、破約必戦論を「断然不同意」と退けた。慶喜の意見は、自分が上京し、天皇に対して、<「万国一般天地間の道理」に基づいて互に好しみを通ずる今日、独り日本のみ鎖国の旧套を守るべきではなく、自ら進んで海外各国と交わりを結ばざるを得ない>と積極開国を奏上するというものだった。慶喜は、これは「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らんとする」開国論だと述べた。実は、この慶喜の意見は、小楠がひそかに考えていたものと同じだった。慶喜が若年だから、これまで「第一等の議を進めても御負担に耐えさせるまじとては第二等の議(必戦覚悟の破約攘夷)を進め」ていたのである(こちら)。春嶽にとっても「天地の公道に基き国家百年の計を立つる事」はもとよりの素志であり(こちら)、慶喜に直接真意をただした上で、「日本全国の為」の積極開国論に同意した(こちら)

春嶽の賛成で、幕府の慶喜上京・開国上奏方針は決まったが、朝廷から、攘夷督促の勅使東下を送るので慶喜上京を11月に延期せよとの沙汰が届き(こちら)、上京は一時見合わせになった(こちら)。 その間、幕議は再び揺れることになった。

政権返上覚悟の開国上奏論攘夷奉勅論への転換
「日本全国の為」の開国論に同意した春嶽は、慶喜に対し、朝廷が開国を受け入れないときは政権返上(大政奉還)する覚悟で奏上に臨むべきだと主張したが(こちら)、慶喜の態度は曖昧だった(こちら)。さらに、10月11日、会津藩を通じて勅使待遇改正の朝命が伝えらると、老中・有司は抵抗し、慶喜も、待遇改正自体には賛成するが京都からの命令で改正するのは幕府の体面上よくないと難色を示した(こちら)

これをみた春嶽は、幕府が朝廷尊崇の誠意を欠き、旧弊に因循して私権を張ろうとしていると憤慨し、こうなっては開国・鎖国の議論よりも叡慮を一途に遵奉するのみと、攘夷奉勅に転じてしまった。そして、総裁職辞表を提出して、10月13日からまたまた登城を停止した(こちら)

春嶽が攘夷奉勅に転じた上に、元来は開国派の前土佐藩主山内容堂が、勅使に随従して現藩主豊範が東下してくる関係で、慶喜や老中に猛烈に攘夷奉勅を入説した。その恫喝ともとれる迫力に押されて、幕府は10月21日、攘夷奉勅を内定した(こちら)。慶喜は、いったん攘夷奉勅を承知したものの、本意ではないため、自分には「攘夷に定見なし」として、10月22日、後見職の辞表を出して登城をとりやめた(こちら)。相前後して、春嶽は小楠の説得で辞意を撤回した(こちら)。春嶽は、連日慶喜を訪問して説得し、勅使一行の到着前日の26日になって、ようやく両者は揃って登城を再開した(こちら)

10月27日に勅使は江戸に到着したが、将軍家茂は病中にあり、勅旨伝達はすぐには行われなかった。その間、これまで国是決定について迷走してきた幕府は、ついに攘夷奉勅を正式に決議した。11月2日のことである。ただし、その理由は<今敢て主張せずとも、いずれ開国説が実行される時機もあるだろう>という消極的なものであった(こちら)。そして、攘夷奉勅にどうにも納得できない慶喜は、再び、病を理由に登城を停止し(こちら)、再度、後見職辞表を提出した(こちら)。春嶽の説得にも「攘夷奉勅は浮浪の姦計にはまるだけ」だと頑として応じなかった(こちら)が、勅旨伝達の前日、将軍から相談があると召出されてやっと登城した。11月27日、勅使は勅諚を伝達し(こちら)、12月5日、将軍は攘夷奉承(策は衆議を尽くした上で、上洛して奏上)を回答した。回答書には前例を破って「臣家茂」と署名されていた。(こちら)

幕薩-公武合体派連合策(衆議による公武一致の国是決定)
慶喜/幕府の武力制圧策vs小楠/春嶽の幕薩-公武合体派連合策
翌春の将軍上洛を前にして、幕府は京都の尊攘急進派勢力対策を定める必要があった。 11月末、幕府にフランス軍艦が大阪湾(摂海)に入って京都に条約勅許を迫るという風評が伝わり、この噂を利用して、京都に大兵を送り、武力制圧を図ろうとする動きが起こった。すなわち、会津藩(閏8月に守護職就任)や旗本を西上させて近畿諸藩と守りを固め、次に慶喜が大軍を率いて上京し、最後に将軍が上洛して直接京都を守護するという計画である(こちら)。しかし、小楠の進言を受けた春嶽は、薩摩藩の島津久光父子に上京を促し、江戸からは春嶽・容堂が西上して会同し、京都で「大に天下の大計を議し然る上公武一致の国是を定め」るべきだと考えていた(こちら)。そこで、在府薩摩藩と容堂の賛同を得た上で、慶喜と老中に、久光父子の上京と衆議による公武一致の国是決定が急務だと訴えると、一同賛成し(こちら)、11月30日、久光の上京を促すことになった(こちら)春嶽の翌春の先発上京も決定した。

薩摩藩との将軍上洛延期運動
薩摩藩は上京に同意したが、京都で国是が定まらぬうちの将軍の上洛は、時期尚早であると反対だった。文久3年1月、久光の使者・大久保一蔵と吉井幸輔が江戸に到着した。これより先、二人は京都に立ち寄り、穏健派の近衛忠煕関白・中川宮らの賛同を得た上で、孝明天皇の勅許も内々に獲得していた。二人は春嶽・容堂に謁し、久光の将軍上洛延期案を説明した(こちら)。春嶽は早速老中の同意をとりつけると(こちら)、大久保・吉井と内談の上、将軍上洛を3月中旬まで延期する朝命を周旋することにした(こちら)。越前藩士中根雪江が大久保と共に京に向かったが、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派に牛耳られた京都の情勢は厳しく(こちら)、近衛関白は将軍上洛延期の沙汰を見合わせた(こちら)。 こうして上洛延期運動は失敗に終わり、将軍は予定通り、2月に江戸を出立することになった。

小楠の「士道忘却」事件
春嶽の政治顧問で、京都会議の主唱者でもある小楠も、当然同行する予定だった。しかし、12月19日、肥後勤王党による小楠暗殺未遂が起り、肥後藩はその場を逃れた小楠を「士道忘却」の罪で厳罰に処そうとした。春嶽の交渉の結果、処分は回避され、小楠身柄を越前藩で預かることになった。23日、小楠は江戸を出立して福井に向かった。春嶽は最大ブレーンの小楠抜きで上京することになってしまった(こちら)。(ザンネンすぎます・・・・)

【関連:開国開城:勅使大原重徳東下と文久の幕政改革  第2の勅使東下と攘夷奉勅&親兵問題 幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 
(2003.7.20、2012/4/25)

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文久3(1864)


かけあし事件簿の主要参考文献(リンク先も参照ください):『再夢紀事・丁卯日記』『続再夢紀事』
『徳川慶喜公伝』『横井小楠 儒学的正義とは何か』『人物叢書松平春嶽』『松平春嶽のすべて』『正伝松平春嶽』


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