「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

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A-10 (慶応4年)2月28日付 愛桜子(毛内の母)宛葛巻行雄(津軽藩士)書簡(口語訳)

葛巻行雄は津軽藩表書院番頭です。この書簡は、葛巻が、慶応3年11月18日の油小路事件で、御陵衛士毛内監物(元津軽藩士)が討死してからわずか3か月余り後に、御陵衛士屯所の高台寺月真院、赤報隊を結成ていた旧衛士の三樹三郎・阿部十郎、戒光寺などを訪ね、知りえた前後の事情(御陵衛士拝命、新選組の「妬」み、油小路事件、戒光寺への改葬など)を毛内の母滝子に知らせたものとなります。最後に追悼の和歌が添えられています。

昨年(=慶応3年)(津軽を)出立の折り、監物殿の京都での様子を尋ねてほしいとお頼みでしたので「穿撃」したところ(様子が)分かり、その後行き来をしておりました。ところが、去る11月18日の夜、(毛内が)木津橋で新選組と戦って討死したと聞き(油小路の闘い)、下宿の高台寺(塔頭月真院)に行き、同宿の方に事情を尋ねようとしましたが、一人も居合わせませんでした。尋ねるべき心当たりもなく、残念ながら日々が過ぎましたが、図らずも水府藩皆川由之助と申すひとと面会することになり、木津橋騒擾の話になったところ、事情は伊東摂津(伊東甲子太郎の弟三樹三郎に尋ねればわかるはずだとのことでしたので、大原殿の陣営に参って三郎に面会し、いろいろ尋ねたところ一部始終がわかりました。その件は、当2月13日に泉涌寺塔頭戒光寺への(光縁寺に)仮葬された面々(討死した4名)の潜葬の朝命がありました(ので)、同寺でお尋ねになればよいでしょうとのことでした。

そこで、同寺へ参り、院代に行き会わせて事の次第を尋ねました。院代によると潜葬は旧年中にも行われる予定でしたが、新撰組に障りがあるため、止むを得ず当月まで延期になったということでした。1月3日の騒擾(=鳥羽伏見の戦い)以来、新撰組も「落ち去」ったので、当月13日に仮葬の場所から「見事の葬儀」で送りました。ご遺体の様子は、衾も取り換え、4人の面々の疵改めを行った上で、武装束にして送ったとのことです。弔いは大名でも珍しいほどで、同宿残りの衛士7人は騎馬で送り、他に150人ほどが野辺送りをしたとのこと。当日は雨天でなければ、300人規模の催しでした。葬儀の費用は、参与の御役所から出されとのことでした。戒名は、覚知院劔冷居士と認めてくれました。墓碑については、時節柄参与の御役所がお忙しいので御沙汰には及びかねているのか、葬られたままですが、引導などは格別に厚い御扱いで、2月28日の百か日にも特別な供養の御沙汰があったと申しました。院代は「死に冥加」というのはこのことかと申しておりましたが、実に冥加です。院代は、また、(毛内)監物は、かねがね、山陵衛士を務めているので万一のことがあればいずれ泉涌寺へ葬ってくれと話していましたが、時の御沙汰で当寺へ自然に(葬られることに)なったと申し唱えておりました。(院代は)かの時、摂津を迎えに出た面々はいずれも奮闘したそうですが、敵方は50人ほどで仕掛けてきたため、多勢に無勢でやむを得ぬことになったと申し唱えておりました。

一 大原殿御内の三樹三郎同志、阿部十郎がともに申すには、(毛内)監物の所持品があればお母上へ差し遣わしたいが、(御陵衛士の一同が伊東の遺体を引き取りに)出かけた後に、「残ず盗取られ」たたため何もなく、残念だとのことでした。十郎は、監物殿とは特に懇意にしていたとくれぐれも申しておりました。お母上の歌なども度々拝見したこと、大いに案じていたことなども話しておりました。

 監物殿がおいでになったときに、朝廷へ___にて人選の上、元新撰組の中から山陵衛士を仰せつけられたため、「兎角衛士拾人は新撰組の妬に困り入り候」、いつ異変が起こるか計り難いとお話しでした。朝廷と_____御用も精勤していたところに、あのようなこととなり、いかにも残念です。

 新撰組の山陵衛士への妬みがいよいよ強くなったため、衛士古役(=頭取)の伊東摂津という人が、新撰組隊長に赴き、全体の始末を語り合い、不和では双方のため、助けにもならない旨を説得しましたところ、納得の旨で、夕方になったため、酒肴を出し、新撰組の面々も出て参り、双方和談となりました。酒宴が終わり、(伊東が)夜5つ頃帰りましたが、(新選組は)門外に伏兵を置いて闇討ちいたしたとのことです。(新撰組は)すぐさま、衛士の下宿である高台寺に使いをやり、<今日伊東摂津がこちらへ参ったたが、何者の所業か、闇討ちにあって亡くなったので、早々に駕籠を持参して迎えに参るように>と知らせました。居合わせた面々は、すぐに駕籠を手配し、迎えにいったとのことです。遺体を駕籠に乗せ、衛士の方でも用心をし、潜に舁ぎ出したところが、木津橋で、四方から伏兵が現れて切りかかったそうです。双方、ふた時ほどの戦いになり、新撰組にも討死する者、負傷者も数人出たとのことですが、衛士方は少数であるため、4人が討死にし、残りは斬り抜けて、土佐藩の屋敷へ駆け込んだそうです。その後、一件が御所向きに達し、御詮議となって、新撰組のうち、二十三人の切腹と決定したものの、「中に御所にて御聞入れこれなく」、新撰組を残らず譴責される御積りで大騒ぎになっていましたが、新撰組が七条の屋敷を立ち退いて伏見奉行屋敷に移動したと聞き、御詮議の最中に、1月3日の大戦争(鳥羽伏見の戦い)が始まりましたので、そのままになっていたところ、当月(2月)13日の(油小路で討死した4名の戒光寺への)潜葬の御沙汰がありました。朝廷のいては、「討死の面々神に祭り下し置るべき旨先般仰せ出ださる所」は神楽岡に決定の義を仰せつけられました。ありがたいことに存じます。戒光寺の院代の申しました通り、死んでの冥加と存じます。世上でも冥加と申すのはもっともでございます。去りながら御母子の御情愛、御愁傷の条は何とも申し上げるべき様がございません。まずは調べましたことを数々申し上げ、やがて帰藩にもなる様子ですので、細々としたことはお会いして申し上げます。  頓首謹言

 二月二十八日    行雄拝
愛桜亭さま

尚、戒光寺院代によれば、「勇士の一念」とは恐ろしいもので、既に仮葬期間が80余日で潜葬になったものの、遺体は一向に(生前と)変わらず、ただ匂うだけで、たった今討死したように見えると、恐る恐る語り合ったそうです。勇士の一念はこうあるべきだと語り合っておりましたとのことです。監物殿死後____惜しむべし、悲しむべしと絶言して語りました。追悼の二首を読みました。

いつか来てかたりしことの今更に
長き別れの形みとぞなる

旭うけまことよの間にあはれにも
霜と消にし君をしぞ思ふ



出所:「毛内良胤青雲録」(『新選組研究最前線下』所収の書き下し文)を管理人が口語訳


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