12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3  テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ

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慶応3年11月19日(1867年12月14日)未明

油小路の闘い

慶応3年11月19日(1867年12月14日)。日付のかわるころ月真院で伊東甲子太郎暗殺(こちら)の報をきいた御陵衛士は騒然となり、七条油小路に急行しましたが、待伏せの新選組数十名に包囲され、死闘が広げられました。衛士は藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物の3名が討死しました。藤堂24歳、毛内33歳、服部36歳でした。

【史資料(要約)】

■月真院にて
(1)同時代史料
<その夜、八時頃(=午前2時頃)、西六条境内油小路七条上るの町役人という者がやってきて、何者かが、前刻、伊東に深手を負わせたので早々に引き取るよう申し入れました。一同は仰天して、早々に引き取ることとし、摂津弟の三樹多門(=三樹三郎)・服部三郎兵衛・南部与七郎(=藤堂平助)・加納鷲雄・藤井弥七郎(=橋本皆助?)・毛内監物・富山弥兵衛・篠原秦之助の八人が駕籠一挺を呼び寄せ、油小路に向かいました。このとき、同組の内、斎藤肇(ママ)は先日来どこかへ行っており、荒井忠雄(=新井忠雄)は当時出府しており、阿部郡十郎(=阿部十郎)・内海次郎は今朝より鉄砲をもって山猟に出かけておりましたので、八人で向かいました。加納・藤井は長らく病気であったので歩行が遅れ、その外の六人にて明七時(午前4時頃)前に、油小路に駆けつけ、死骸を駕籠に乗せました
(衛士らと現場に駆けつけた岡本武兵衛(=小者・賄係)の事件翌日の聞書『編年雑録』より口語訳)

(2)回想録・回想談
1)油小路の町役人が月真院にきて、伊東が殺害されたので遺体をひきとりにきてほしいと告げた。その一声で隊中はあるいは驚き、あるいは怒り騒擾はなはだしかった。服部は<敵は新撰賊に違いない。甲冑の用意をするべきだ>といったが、三樹は<新撰組が番をしているのだから暗殺という形がおもてには顕れていない。もとより面識があるのだから、礼をもって受け取るべきである>と反対した。篠原は「このように人を殺す隊である。待伏せがあるかもしれない。もし賊とたたかえば、多勢に無勢だが、甲冑をきて路頭に討死すれば、後世、臆病と笑われるだろう。みな常服であるべき」と主張した。同志、その意見で一致し、7名と小者武兵衛、かごかきをつれて油小路にかけつけた(篠原泰之進あるいはその息子の手記『秦林親日記』より要約)


2)町役人から知らせがあったのがちょうど皆就寝していた夜の12時ごろで、一方ならず驚いたが、そこにいわせた8名(鈴木・秦・藤堂・服部・毛内・富山・加納・小者の武兵衛)で油小路に行った。(元御陵衛士加納道広談『史談会速記録』より要約)

3)町役人を使って「伊東が土佐の者と議論をしてついに斬殺さえて倒れているから迎えにこい」と言い遺した。(元御陵衛士阿部隆明談『史談会速記録』より要約)


(3)関係者による伝記・通史
新撰組のものが町役人に変装して月真院にやってきて、「伊東先生が土佐人と口論の上、刃傷におよび、敵はみな逃げ去った。先生はいささか足に傷をうけられたのでかごで迎えにこられよ」と告げた。みな驚愕した。伊東が近藤の毒手に落ちたのは残念だが、このうえにどんな策略があるかわからないので議論となった。三樹は伊東の実弟なので「わたしが単身で迎えにいけばいい。万一近藤の術中におちれば、後日仇をとってくれ」と頼んだ。のこりの同志は、三樹を見捨てることはできないとことごとく駈け出そうとした。服部がいった、<敵は新撰賊に違いない。甲冑の用意をするべきだ>と。三樹は<新選組ならば面識がある。わたしが礼儀をもって負傷人を迎えにいけば暴威に及ぶはずがない>といった。篠原は「このように人を殺す隊である。待伏せがあるかもしれない。もし賊とたたかえば、多勢に無勢だが、甲冑をきて路頭に討死すれば、後世、臆病と笑われるだろう。みな常服であるべき」と主張した。みなこの意見に同意した(服部だけはひそかに衣服の下に鎖をきこんだ)。このとき、衛士中、新井・清原は出張中。阿部・内海は山狩りにでかけており、7名に小者と人足を加えた10名であった。(衛士と親交のあった西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』より要約)


夜の月真院門前(2002年12月14日深夜撮影)←12月14日限定UP。怖いかもです。

■七条油小路にて


七条油小路通北手の民家

(1)同時代史料
1)<南部与七郎が駕籠の垂を引いていたところ、後ろから(待ち伏せの新選組が)ぶさっと、与七郎の背中を一太刀切りつけるや否や、一発の銃声を合図に四方から伏兵四五十人が刀を抜いて斬りかかりました。南部は、背中を斬られて振り向いた顔を額から鼻にかけて真っ向から斬り込まれ、抜き合う間もなく即死しました。この時、服部は大声で<卑怯なり、賊徒ら、発砲するとは>と言いざまに抜き放ち、敵一人を切り倒しました。三樹・篠原・富山・毛内等は少しも後れず、多勢を相手に戦闘となりました。中でも服部は大男で剛力の太刀を振り回し、一際働き、その結果、八・九人を引き受けて切り結びました。毛内監物は向う敵と戦うところを、別の一人に後ろから肩先深く斬り付けられ、また別の一人に横手から足を斬り払われ、忽ち倒れながらも、敵一人に深手を負わせて息果てました。富山は元来雇人で、三尺余りの長刀を打ち振るい、四・五人を相手に散々に戦い、数箇所の手傷を負ってどこかへと斬りぬけ、三樹・篠原の二人も敵と斬り合いましたが、何分相手が多人数なので勝つことが難しく、どこかへ斬り抜けました。服部只一人となって、精神は益々盛んになり、ニ・三人に手傷を負わせましたが、終に敵多勢のために斬り死にしました。右四人は即死です。敵はどこかへか残らず引き上げました。後に残された刀は折れ、手の指多数が落ちており、町分には大迷惑をしました>(事件翌日の岡本武兵衛聞書『編年雑録』より口語訳)
2004/11/10追加(新選組本ではほとんど紹介されていないと思います)

2)月真院から8名がかけつけた。伊東の傷口をみればいかにも深手で助からないとみて、駕籠にのせて油小路の7条辻にさしかかったころ、伊東の遺体が駕籠からころげおちそうになったので、縄でかこむように世話をしていたところ、油小路南より15人、七条通り西より20人ほど、黒装束目だし頭巾でたすき鉢巻のわらじがけのいでたちの男たちが、ガンドウを携え、槍や刀を抜き身にもち、足音もたてずにひそかにちかより、月夜の陰からやにはにこの8人にうちかかった。この8人がかごの世話に気をとられていたところに言葉もかけずに斬りかかったので、驚いたようだが、もとより少しは覚悟があったとみえ、抜き合って1人に4〜5人ひきうけ、闘うさまを油小路町内の者が2階からひそかにのぞいていた。襲った方は武装している者もあり、次次に新手をくりだすなど準備があったが、応戦する方は紋服袴だった。負傷した2人を3人で介抱しながら立ち去り、後には3人が残った。あとに残った3人のうち、中でも両刀つかいのもの(注:服部)の者のせいで、多勢の方がかえって散々なめにあう様子だったが、ついに刀が折れたところを総がかりでたたみ掛けに打ち倒した様子であった(『鳥取藩慶応丁卯筆記』より要約)


(2)当事者の回想録・回想談
1)四方をみわたすと凄然として人影がなかった。ただちに伊東の遺体にかけより、その横死をみて一同嘆息を発し、すぐに遺体を駕籠にいれようとしたところ、賊が三方から躍り出て、きりかかった。相手はみな鎖をきており、その数40名ほどだった。われわれ同志はみな素肌で鎖の備えがなく、多勢に無勢でついに敗走した。このとき討死したのが藤堂・毛内・服部である(篠原泰之進あるいはその息子の手記『秦林親日記』より要約)

2)夜の2時ごろで湯屋があったが、わたしは見張っていたところ月にピカリと光ったものがある。それ覚悟せよというと手元にこられたので、無茶苦茶に前の者一人を袈裟懸けになぐりつけてつきとばし、その上を飛びこしていくとまた掛かられて・・・(元御陵衛士加納道広談『史談会速記録』より要約)

3)(伊東の)遺体をかごへひきあげたところで(新選組が)八方から取り巻きまして(鉄砲で)撃ってかかった。藤堂と毛内で遺体をかごにのせるというところだった。毛内は学者なので剣はできず、たちまち斬られた。藤堂と服部は非常によく働いた。藤堂・服部が斬りこんだので撃つことができず、槍をもって服部をついたようだ。(元御陵衛士阿部隆明談『史談会速記録』)ただし、阿部は当夜は狩にでかけていたのでこれは生き残りの同志からの伝聞 

4)「しかも敵の伏兵40〜50人が前後左右からたちまち攻撃してきた。ところが服部の勇猛な剣の妙手には敵もみな驚いてしもうたということを当時新撰組の一、ニの人士から私が後に確かに聞き得たところである。服部氏の猛勇このごとくなりしといえども、多勢の敵に前後左右より攻め囲まれ、味方7人のうちにおいて藤堂平助は奮戦してまず幣れ、毛内監物、これに次いで幣れ、他の4名はおのおの一方を斬りぬけて囲を破りて逃げたるがゆえに、服部独り踏みとどまり奮闘力戦して敵を殺傷すること十余人に及びたりし。しかれどもその身にもまた二十余の傷をこうむりて、ついにここに幣れたりという。・・・(中略)・・・服部氏の死状は実に勇ましく、その頭額左右より肩ならびに左右腕腹ともに満身二十余創、流血淋漓死して後の顔色なお活けるがごとし。この暁にてそのころの幕府の巡察官吏がまだ死体の検視に出張せざる以前の油小路七条六条間の戦闘場の実況はこのごとくでありました。・・・(中略)その烈戦奮闘の非常なる、一身をもって衆敵に抗し、以って同行の4人をして逃脱せしむるの暇を得せしめたることも又もって想うべきなり。」(現場をとおりかかった元桑名藩士小山正武の談話『史談会速記録)』
 

(3)関係者による伝記・通史
1)伊東の遺体の足がかごからはみでたので、藤堂がこれをいれようとしていたところ、加納が一声高く<賊がきた。油断するな>と叫ぶやいなや、三つ角の民家から新選組40〜50人が殺到した。藤堂はまっさきに剣を抜いて斬り結んだ。服部・毛内は門柱を背後にして闘う。篠原・富山は東側で闘い、鈴木・三樹は西側の敵と闘った。藤堂は四方に敵を受け。数ヶ所の重傷を受けてついに弊れた。毛内は北側の溝際に切り伏せられ、富山・篠原も軽傷を受けて東に走り、鈴木・加納も西に敗走した。服部は剛力の大兵で剣の達人だった。ひとり鎖を着こんで多勢をおそれず腰の三尺五寸の長剣を抜いてたたかった。敵を数名倒して暴れ回った。敵は(残りの同志がすでにたおれるか包囲をやぶって)服部がひとりとみて、服部をとりかこもうとするが、服部は民家を背にし、二方に敵をひきうけて激戦となった。このために新選組で傷を負うものが多く、ついに敵は槍をもって服部を突き殺した。(『新撰組(壬生浪士)始末記』より要約)


(4)その他
(剣がさして使えない文人の)毛内は、「大事な命だ。逃げてくれ」と絶叫しながら(同志を逃がすために)闘い続け、なますのように斬られて死んだという。(『戊辰物語』より)


<遺体検視書>
藤堂:「七条油小路南西手に倒れ居り候ものは・・・傷は両足、横腹2ヶ所、面上鼻より口へかけ深さ2寸ほど、長さ7寸ばかり。刀を握り候まま果ており候」

毛内:「油小路通七条少し上ル東側へ寄果居候は・・・傷は書き尽しがたし。五体離れ離れに相なり、実に目もあてられぬさまに御座候。かたわらに刀の折れ候ままこれ捨ておかれあり、脇差を握り候まま果ており候」

服部:「辻北東手に倒れ居候ものは・・・七条少し上ル東側へ寄り倒れ果て居り候ものは・・・傷は背中数ヶ所。これは倒れた候ところを散々に斬りつけ候おもむきにて、傷の数分からず(数えきれず?)。うつむけに倒れおり候を翌日あおむけ候ところ、腕先・三ヶ所、股足・四〜五ヶ所、かかと一ヶ所、胴腹一ヶ所。流血おびただしき」

(『鳥取藩慶応丁卯筆記』より作成


■写真でみる油小路事件の経過(上記資料より推定)
七条油小路辻を南から北へ見る(ただし、七条通りは明治以降北側に拡張されているので、幕末当時は、実際は、画面手前半分くらいの幅だったようだ)



(1)(2)  

(3)

<ヒロ>
出張で準備ができませんでした。土佐藩のことに絡めてとか、実はもう一人駆けつけていたかもしれないとか、いろいろあるのですが、コメントはまたの機会に・・・。コメントというほどではないかもしれませんが、御陵衛士列伝・服部三郎兵衛 「藤堂平助・めぐるひとびと・伊東」をよかったらご覧ください。

なお、ときどき、藤堂が溝に落ちて亡くなったといわれる方がいるのですが、何よりも確かだと思われる遺体検分の同時代記録によれば(東側の)溝際に倒れていたのは毛内監物で、藤堂は油小路の辻の南西で倒れていました。同時代人で伊東らと親交のあった西村兼文も(北側)の溝際に倒れていたのは毛内だとしています。・ほかにも手持ちの史資料を再度あたってみましたが、藤堂が溝に落ちた話はでてきませんでした。子母沢寛の作品にはでてきたので、もしや、それが史実として広まったのかもしれません。

藤堂に関連していえば、永倉が近藤の命を受けて助けようとしたという説も永倉自身の記録にあるだけで、管理人は非常に怪しいと思っています。目撃者の武兵衛が、藤堂は抜き合う間もなく絶命したと、事件翌日の19日に証言していますし。詳しくはいずれ・・・。(だいたい、同志を見捨てて一人逃げるなんて発想は、藤堂に対してすごく失礼じゃないでしょうか)。

関連:
慶応3年11月18日:油小路事件(1)伊東、近藤妾宅へ呼び出される 11月18日:油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される 11月19日:油小路事件(3)油小路の闘い 11月19日:油小路事件(4):伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に11月20日篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/ 11月21日:篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流/ 11月24日薩摩藩吉井幸輔、伊東の暗殺についてコメント。

別館HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

<参考>『史談会速記録』、『新選組史料集コンパクト版』、『大日本維新史料』収録・引用の史料、『戊辰物語』
(2000.12.14、2003.12.14)

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