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残しおく言の葉草(2)恋・志・中山道中の歌など |
「残し置く言の葉草」は伊東甲子太郎の草稿を悟庵という人が撰んだ歌集です(詳しくはこちら)まずは、歌を簡単なコメントとともにご紹介し、少しずつ、素人解釈(★)をつけていこうと思います。志に命を賭けて散った人物の残した歌です。やおい作品への悪用は絶対にやめてくださいね。 ・鈴木家蔵の原本から、素人の管理人が判読して活字化しています。誤りに気づけばそのつど訂正したいと思います。各歌の後の()の数字は、小野圭次郎の「伯父伊東甲子太郎武明」)における収録順です。かなりかわっていることがわかりますよネ。 ・太字の歌は、子母沢寛版(「遺聞」)にも小野版(「伯父伊東甲子太郎武明」)にも未収録(未刊行)の歌。 ・番号に下線が引かれた茶色の歌は、古歌であることを示しています。未公刊歌はこのページには6首(36、48、74、83、84、85)、古歌は少なくとも5首(35、39、48、84、85)。未公刊歌のうち3首は古歌。 ・赤番号は恋の歌(それらしいものを含む)です。なんとこのページの53首中20首。ちなみに国事にかける志を表明した歌はたった5首です(笑)。 ・黄色い番号欄は中山道中で歌われたと推定される歌が含まれる欄。ただし、春の歌と秋の歌があるので、どうやら春・秋と少なくとも2回は中山道を旅したもよう。また、同じ番号欄の歌でも、悟庵が歌の順序を変更した可能性もあるため、同時期に詠まれたかどうか確証はありません。 |
33 34 |
題しらす むら雲のかゝれる月のおもひもや花にうち吹春の山かせ(47) 数ならぬ身をはいとはて秋の野に迷ふ旅寝もたゝ国のため(48) |
34=国事のための秋の旅。孤独な旅のようだ。慶応3年の8月は海路筑紫への旅なので、慶応1年か慶応2年の新選組在隊中のこと。 |
35 |
霞ヶ関にて おなしくは空にかすみの関もかな雲路の雁をしはしとゝめん(55) |
35=武州川越近くの霞ヶ関なら中山道を旅中となる。実は勅撰和歌集である「続千載和歌集」の春歌に前大納言爲世の「おなじくば空に霞の関もがな雲路の雁をしばしとゞめむ」がある。伊東が霞ヶ関にいたったとき、この歌を思い出して書き付けたのでは?(これを本歌としようとして、そのままになっていたのかも)「雁」は普通秋の季語だが、「続千載和歌集」では春歌なので、これも春の歌?? *和歌のテキストはHPピッツバーグ大学・バージニア大学日本語テキストイニシアティブより。 |
36 37 38 |
武蔵野 春のきる霞の○やこもるらんまた若草のむさし野の原 逢ふ人にとへとかはらぬおなし名のいく日になりぬ武蔵野ゝ原 (56) 梅が香の下行水の便にもさそわれきこゆ鶯のこえ(86) |
36=若草の武蔵野をまだ旅しているという意味。春の旅。 37=中山道の武州(本庄〜板橋)を旅中のようだ。武蔵=保守的でなかなか変わらない幕府にかけているのかもしれない。 38=春の歌。 |
39 |
関の藤川にて さてもなをしつまぬ名をやとゝめましかゝる淵瀬の関の藤川(16) |
39=「関」は「不破関」のことで関が原宿(中山道58番め)の史跡。古代、壬申の乱がこの川をはさんで行われた。歌枕として有名。現在は岐阜県不破郡の藤古川。 実は、南北朝時代に小島に逃れた北朝の帝の後を慕って旅立った二条良基関白の日記「小島の口すさみ」に「さても猶沈まぬ名をやとどめましかかる渕瀬の関のふぢ川」という歌がある。35の歌同様。伊東は関の藤川にいたったとき、この歌を思い出して書き付けたのを、選者の悟庵はこのことに気づかず選んでしまった?(関連:壬申の乱@関が原町HP、関ヶ原町観光協会、 |
40 | 不破関 あられふる不破の関屋に旅寝して夢をもえこそとをさかりけれ(26) |
40=「あられ」は冬の季語。冬の旅だとすると中山道への旅は複数回?あるいは秋〜冬にかけての旅? |
41 42 43 44 45 46 47 |
題しらす 秋きぬと目にこそ見えねかり枕たひ寝さひしき虫の初声(49) 心なき人に見せはや秋の野にさき乱れたる萩のさかりを(50) 真心もかなふの里に旅寝して夜深き秋の月を見るかな(18) 我が袖のしつくにいさやくらへ見ん咲みたれたる萩の下露(51) 心なき人を心におもひそめこゝろみたるゝ秋の萩原(52) 一夜見し人の情にたちかへるこゝろもやとるあをはかの里(20) 行つれの友さへあとにのこる夜をしはしか夢に赤坂の里(21) |
41=秋の旅。藤原敏行の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(古今)が本歌?立秋(8月7日頃)前後の歌。 42=「心なき人」は45と同一人物で、思い人(花香太夫?)。 43=中山道53番目加納宿。 関連HP:「岐阜は加納」 49,50も加納宿 44=袖の雫は涙のこと。国を思う涙というより恋の涙?(伊東は慶応3年秋(8月下旬頃)に長門で萩=長州の歌を詠んでいるが、花香への恋であれば、慶応元年か2年の秋)。 45=つれないひと(花香太夫?)に恋し始め、心乱れる秋。 46=大垣市青墓(中山道赤坂宿近く)。赤坂が中山宿宿場に指定されるまで宿場として栄えた。新古今集にも多く歌が選ばれている慈円の歌に「一夜見し人の情にたちかえる心に残る青墓の里」があるらしい。これも、39番の「関の藤川」同様、慈円の歌を思い出したか、地元で慈円の歌があると聞いて書き付けたものでは? 47=赤坂は中山道56番目の宿。同行の友と別れて先へ進む?藤堂平助が美濃に出張していたともいうので、もしかしたら藤堂?現大垣市。(赤坂商工会議所) |
48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 |
題しらす 願ひある身には深くもうれしけれ名さへかなふの里にやとりて(17) 旅衣うらうれしくも思ふ哉名をもかなふの里のやとりは(19) 兼てよりあすある身とも思はねはいかてちきりを結ひ留へき(54) 霧深き秋の萩原わけ行は身にもしられす袖しほるなり(53) ますら男の袖に涙の留めてはむかしを思ふ関ヶ原かな(22) 千早振神もいますの里なれは世の為尽す人を守らん(24) かきりなき恋の山路に関もかな迷ふこゝろを留てや見ん(23) ときはなる色やくらへん柏原峰に生ぬる松のみとりは(25) ひそみ行人をとゝめよ国のためあたあるものそ不破の関守(27) すみあれし不破の関屋の板ひさしもれ入月はさしも留な(28) 夢うつゝうつゝにすきぬ旅なからけふ醒ヶ井の里や越さまし(57) |
48=子母沢版にも小野版にも未収録の歌。注釈に「古歌」とみえるので、35,39,46同様、昔の歌に同じものをみつけて打ち消し線を加えた模様 49,50=中仙道加納宿。「加納」宿と願いが「叶う」をかけてよろこんでいるのがほほえましいかも^^。 51=73と並んで管理人の好きな伊東の恋の歌。国事に奔走し、明日も知れぬと覚悟する自分が、どうしてかの人と契りを結び留めることができようか・・・。「契りを結ぶ」は夫婦になること。ウメとのことを詠ったものかもしれない。また、花香を身請けしたい、しかし自分が死ねば彼女はどうなるのか・・・そう思って躊躇する歌かもしれない。だとすれば時期的には上の恋の歌より後、御陵衛士分離後の慶応3年春以降だと思う。小野版では「兼てより」が 「予てより」に変更されている。 2004/11/28 楠木正行の歌を調べていて「とても世にながらふべくもあらぬみのかりの契をいかで結ばん」(「吉野拾遺」)に出遭った。本歌?! 52=秋の旅 53=関が原は中山道58番目の宿。岐阜県不破郡(関ヶ原町観光協会)。 54=今須は中山道59番目の宿。岐阜県不破郡。美濃の中山道はここまで。 55=恋に迷う歌。「関」はおそらく不破関のこと。 56=柏原は中山道60番目の宿(近江路に入る)。滋賀県坂田郡。山東町商工会。 57.58=中山道関ヶ原宿。 59=「醒ヶ井」と夢から「醒」めるがかけてある。醒ヶ井は中山道61番目の宿(近江国坂田郡)。関連=旅の窓口醒ヶ井 |
60 |
近江路にて 唐崎の松の緑も色添ん夜深にふれる秋のむらさめ(30) |
60=秋の旅。唐崎の松(現大津市)は近江八景 |
61 62 63 |
春の歌の中に 春風の糸よりかくる青柳のたゝ一すしを吹なみたしそ(58) ゆかしくも袖にとまりし花の香を吹なちらしそ春の山風(59) おほろなる花のやみ夜をいかにせん香をのみ袖にとゝめてそ行(60) |
慶応2年春? 62,63=おそらく花香への恋の歌。袖の香は残り香のことで、逢瀬の名残を惜しむ歌だろうと思う。どちらも艶っぽくって好きです^^。 |
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題知らす 世の為に尽す誠のかなはすはわか大君のたてとならまし(61) 国の為おつる涙のそのひまに見ゆるもゆかし君のおもかけ(70) おのれのみ深き淵にしつめとも浅しと見ゆる川竹の身は(71) 流れ行人の心の浅けれはわれのみ深くものおもふかな(72) よしや身はいくせのよとに沈むとも世のうき事をすくはさらめや(62) 千早振神代のまゝの桜花よのうきことはしらて咲らん(83) おのれのみ深くもおもひそめにけりうつろいやすき花の色かそ(73) 咲き匂ふ花の盛りと聞しのみ香をたにとめて春は過きけり(63) 恋しさを何にくらへん白雪のふしの高嶺に積る思ひを(74) かねことのあるにかひなきうかれめの夜なゝゝかわる枕こそうき 千代まてとちきる色香もかひそなき嵐にまかす花の行末(75) あふくへし我身の上のあつさ弓君と親との情あつさを(76)★ 文字きゆるこのうす墨の玉つさもたへぬ泪のかゝるそとしれ(77) 心からはつかしきかないたつらに暮して年をおしむならひは(64) 時鳥待つ夜は数多かたらはて思ひすてたる枕にそきく(107) 見よや人おのかえならぬ花の香に折つくさるゝ野路の梅ヶ枝(84) わすれすもとふそうれしき時鳥幾とせなれし宿の垣根に (108) いかにせん都の春もおしけれとなれしあつまの花のなこりを(78) あふまてとせめて命のおしけれは恋こそ人の命なりけり(79) 薄墨にかく文章と見ゆる哉霞てかへる春のかりかね 世の中をいとふまてこそかたからめかりの宿りを惜む君かな 世をいとふ人とし聞はかりの宿にこころとむなと思うはかりそ |
64:小野版は「誠のかはらずば」(志もたまには(笑)詠んでます。 65=国事を憂えていても、君(花香?)のゆかしいおもかげが消えない・・・臆面もなくいってます(笑)。恋愛の真っ最中って、勉強してても仕事していても相手の顔が思い出されますよネ。幕末の志士もそこは変わらないんですね^^。 66,67=自分の深い思いに比べて遊女である君の心は・・・と恋に悶々。かなり相手に翻弄されている模様。66の「川竹の身」は「川竹のように流れる身→遊女(=花香)」だと思う。67の「流れ行く身」も同じ。「心浅し」は情が薄いこと。 68=唐突に(笑)国事にかける思いを詠んでます。「いかん、いかん、恋におぼれてるときではない」と自分自身に言い聞かして詠んでそう^^。 69=これも、桜を愛でている歌というより、世のうきこととは無関係な遊郭に咲く桜花のような花香を詠んだものかも。 70=66,67と同じ心境を詠んだもの。 71=素直に読むと、国事に奔走するばかり花を愛でるひまもなかったという歌かも。でも、花香は咲き匂うようだと聞くだけで、会うこともなく春が過ぎた(忙しくて、あるいは太夫は気位が高くなかなかあってくれないので)ということかも^^. 72=花香?が恋しくて恋しくてしょうがない様子。 73=小野版にも子母沢版にも含まれていない未発表歌(2004/8/26現在)。遊女相手に「かねこと」(約束)があっても甲斐の無いことで、毎夜違う男の相手をすると思うと憂鬱だ・・・。逢瀬をとげたら遂げたで、煩悩してます(笑)。この状況から脱するには身請けして独り占めするしかないですよね。 74=73の歌と同じ心境の歌。遊女相手に永遠を誓うことの甲斐のなさを嘆いている模様。もしかしたら身請けを考え出した頃?なお、小野版は「風にまかする」に変えられている。 75=伊勢物語中の「梓弓」の男の身の上を自分に重ね合わせた歌?「梓弓」の解釈に悩む管理人に、松濤さんからは梓弓→月(三日月)の形→歳月(来し方)で、ある覚悟を決めた人物が月を見上げてこれまでのプライベイト来し方を振り返っている歌ではないかかとのご意見をいただきました。(★) 76=国を思う涙というより、恋の涙か(すっかり邪心モードの管理人^^;) 78=夏の歌。時鳥(ほととぎす)が鳴くのを無心に待つ穏やかな夜の歌。時鳥(ほととぎす)は夏の季語。夜に姿を見せずに鳴くので、忍ぶ恋ともとれるけど。80と同時期とすれば、旅の最中? 79=春の歌。小野版は「見よや見よ」 80=夏の旅。年来の馴染みの宿。その垣根で、今年もまた時鳥が鳴いたのを、自分を忘れず呼びかけてくれたように思えて思いがけずも嬉しい歌^^。 81=春の歌。古語では「惜し(をし)」は「愛し」とも書かれる。「名残」は余韻・心残り。花香(都の春)へのときめく思いと、江戸の妻ウメへの断ち切れない思い(なれしあづまの花の名残)との間で揺れる歌では。だとすれば慶応2年春? 2006/12/16 先日、能の「熊野(ゆや)」を初めて観劇したとき、劇中、熊野が「いかにせん都の春もおしけれどなれし東の花や散るらん」と詠んだ。熊野の母は関東にいるが、重病だとの知らせが届く。熊野は仕える平宗盛に帰郷を願い出るが許されない。宗盛は熊野を慰めようと花見に連れていくが、突然振り出した雨に散る花をみて母を思い、熊野が詠んだ歌がそれ。宗盛はその歌に心をうたれて帰郷を許すというお話。伊東の歌は「花や散るらん」を「花のなごりを」としたもの。なので、ウメへの思いではなく、関東にいる母親への思いを詠んだとみる方が自然かも。 82=管理人の一番好きな伊東の恋の歌です。国事に命を捧げた自分だけれど、あなたに逢う(逢う瀬を遂げる)まではその命が痛切に惜しい。そうか、恋こそ人の命、この恋こそ自分の命なんだ・・・。そんな歌だと思います。 実は堀河右大臣の「逢ふまでとせめて命のをしければ恋こそ人の祈りなりけれ」(後拾遺)の本歌取りです。「祈り」では、国事と恋のはざまにゆれる自分の思いを表すのに足りず、「命」に変えて詠んだのではと思います。 83,84.85=小野版にも子母沢版にも含まれていない未刊行歌(2004/8/26現在)。 84,85=「世の中を厭うことまでは(出家するのは)難しいだろうが、仮の宿(浮世と同時に一夜の宿)を惜しむ君であることよ」「あなたは世の中を厭う(出家した)人と聞きましたので、仮の宿ごときに心をお留めなさいますなと思っただけでございます」というような意味。実は「新古今和歌集」中の西行と遊女・妙の贈答歌。宿を借りようとして断られた西行が詠んだ歌に遊女が返したそうな。謡曲「江口」も有名。おそらく、伊東が江口を訪ねたときに思い出して書き付けたものでは。小野版からスキップされたのは、伊東の歌でないからでしょうか。 |
(1)上京、望郷、山南割腹弔歌等 | (2)恋、志、中山道中等 | (3)春・真心(離縁した妻への思い?) | (4)慶応3年8.9月の九州出張等 | (5)武将の母・妻の歌(伊東の歌ではない)など |
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