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残し置く言の葉草(4)慶応3年秋・九州出張等

「残し置く言の葉草」は伊東甲子太郎の草稿を悟庵という人が撰んだ歌集です(詳しくはこちら)まずは、歌を簡単なコメントとともにご紹介し、少しずつ、素人解釈(★)をつけていこうと思います。志に命を賭けた人の残した歌です。やおい作品への悪用は絶対にやめてくださいね

・鈴木家蔵の原本から素人の管理人が判読して活字化しています。誤りに気づけばそのつど訂正します。
・各歌の後の()の数字は、小野版における収録順です。原本と変わっていることがわかりますよネ。
太字の歌は、小野版にも子母沢版にも未収録の歌です。
・原本は慶応3年秋の九州出張時の歌が収録されていますが、小野版には伊東が慶応3年の春に九州に出張した際の手記「九州道中記」の歌がところどころ挿入されており、時系列が混乱していました。

番号欄がは慶応3年8月の九州行のときと思われる歌。同志(友)や故郷の母を思う歌もありますが、大開国論なのに外国人を罵倒したりもしてます(笑)。恋の歌がないのは、既に花香を落籍して落ち着いた関係だったからでしょうか。(おそらく花香との間に)子どももいたといいますし・・・・・・。


118
 慶応三ツの秋八月の初に思ふことありて
 筑紫の国に下らんとして郷をうち立時によめる
 長歌

おもひやれ しはしかりねの やとりさへ 別るゝときは かな
しきを 東山なる 萩の花 さきみたれたる 世の中を
我大君も たみ草も うきの涙に ぬるゝのみ ほすよしそ
なき ありさまを 聞につけて もますらをか その真心を
つくし方 したしき友に かたらひて 酒くみかわし 別れ
路の なこりをおしみ 秋風の 身にしむ頃に 立別れ 
心ほそくも いで立ちぬ(114)
慶応3年8月8日。伊東は新井とともに大宰府に向いました。関連:「伊東の事件簿」

長歌です。万葉風というのでしょうか。ここでも「真心」が強調されています。その「真心」のつくし方を語らう「親しき友」は、もちろん他の衛士たちでしょう^^。旅立ちにあたって国事にはやる気持ちより心細さが先に立つナイーブな伊東。新井が一緒だ!がんばれ!!(ちなみに、伊東は同年 1月に九州に向う前も出立前に、友たちと酒を酌み交しています)

「つくし方」はこれから向かう「筑紫潟」とかけてある。
119  同しき
大君の大御心をやすめすは身はつくし路の露ときえまし(114)
身は「尽くし」と「筑紫」路がかけてあります。九州出張を王事のためと位置づけていることもわかりますよね。


120
 おなし思ひに友とちなこりをおしみ三人りし
 て伏見の里に送り来ぬ人へ
ひとすしに我が大君のためなれは心をあたにちらしやはせそ(117)
友どち=友達です。御陵衛士の同志たちのことでしょう^^。
121 つきぬなこりも よと川の 船にまかせし 身をいかに 西に
東に別れつゝ かたろふ友は 昌方ぬし おのれはかりは
浪花かた よしあししらぬ 旅の空 ふけ行夜半の 月
影も はれぬ思ひに とま舟の うちに露けき 秋の
夜に いとゝ思ひは ますらをか ますゝゝつくす つくし路へ
国の為とて 真心を つくしにこそは 行きにけれ
2つめの長歌です。ここでも「真心」が強調されています。

友=昌方ぬし=新井忠雄
「よしあし」は「善し悪し」「葦・葦」に掛けてある。また、「浪花潟」と「葦・葦」は縁語。「(真心を)尽し」と「筑紫」が掛詞。

122
 かへし歌
うきことのかきりを積て渡るかな思ひは深き淀の川舟(119)
慶応3年8月8日?
関連:「伊東の事件簿」






123
 流にそひし賤か家に暁つくる鶏のこえ聞
 まゝに夜はほのゝゝと明わたり浪華の浦に
 着きにけり此宵は昌方ぬしのしれる人の方に
 やとりけれはいとまめゝゝしくつかひけれは
 その真心をよろこひて

しるしらぬへたてぬ花の色見えて匂ひゆかしき人の真心(120)
慶応3年8月9日?、大坂で新井の知人宅に泊まる。何度も何度も詠まれる「真心」。伊東にとって「真心」は人としてとても大事なものなよう。
関連:「伊東の事件簿」








124
125
 そのあすの日も船出せぬとありけれは日ねもす
 こゝにかたらひてあすなん船にのらましものをと
 おもひはへりしに俄に船にのりたまへかしとて
 迎ひになん来りけれはこの家をいてゝ船には
 入ぬ 舟のうちにもくさゝゝの人のりあひてか
 たろふこともさためなき賤けきことや根なし
 ことにて心とむる人とてもあらぬまゝ 

うきことも安きもいかてしりえへきおのかまにゝゝ生る民草(121)
ひそみ行わしの心をむら雀むらかりしとてしりえへきやは(122)
慶応3年8月10日?大坂港を帆掛け舟で出航。 関連:「伊東の事件簿」

同船の人々のバイタリティに圧倒され、気楽でいいなぁと思わず思ってしまった様子(笑)。まぁ、現在でも、関東人が関西人の中に放り込まれたら、そう思うかも?

*『龍馬と新選組』では詞書が抜けている。

126
 また浪華津にて
浪花津のよしあししけき世の中にわかよしあしはしるよしもなき(123)
慶応3年8月10日?葦(よし)葦(あし)と善し悪し、知る「よし」がかけてある。価値観の混乱する世の中なので自分が善なのか悪なのか知る由もないが、きっと後世の人が判断してくれるだろうという意味では。 関連:「伊東の事件簿」

127
 とも綱をときける時に
数ならぬ身をは思はて大君のためをつくしにかよふとま船(125)
慶応3年8月10日?苫船は苫を葺いた船。(第1回の九州行は蒸気船を使ったのでこれは第2回)。「筑紫に(通う)」と「(大君に)尽しに」がかけてある。 関連:「伊東の事件簿」





128
129
 真帆あけて風にまかせて行船は淡路島根に
 近き頃兵庫の方や津の国の沖なかにえみし
 か船の数々我ものかほに船かゝりせしを
 見て

なまくさきえみしら船をうち払へ清きの大和つるき太刀風(126)
なまくさきえみしの風に常盤なる松のみとりも色かわり行(127)
慶応3年8月10日?兵庫開港後のことで外国船がいっぱいいたのでしょう。伊東は大開国論ですが、近畿は天皇のお膝元でもあり、兵庫開港には反対でした。それにしても「松の緑の色もかわる」って^^;。関連:「伊東の事件簿」 伊東の建白書「大政奉還後の新政府基本政策(綱領)


130
 播磨灘もうちすき牛窓てふみなとに
 舟かゝりせし時
さなきたに浮世をわたるとま舟にかり寝の夢もうし窓のはま(130)
慶応3年8月中旬。潮待ち?で停泊しているときの歌。「憂し」窓と「牛」窓がかけてある。牛窓は岡山県邑久郡牛窓町。関連:観光協会HP

131
 八月望の頃なれは
ふして思ひ仰けは清き月影のくまなく照す船のうへ哉(131)
慶応3年8月15日頃。この歌の情景は好きです。



132
 牛窓も船出して日にゝゝ筑紫のかたの
 ちかくなりけれは乗あひし人々は故里
 近くなるをよろこひあへりけるを
もろ人の古里ちかく行船はわか身にとをき旅路なりけり(132)
慶応3年8月中旬。牛窓から下関を経て筑紫に向う船上。みんなの故郷に近づいていくけど自分はこんな遠くにきちゃった・・・という伊東らしい(笑)ホームシックな歌。子母沢版(「遺聞」)は「旅寝なりけり」 関連:「伊東の事件簿」


133
 はや十八日と云ふ頃になりて長門なる関の
 みなとにつきければ
長門なる萩の葉ことにおく露のひかりを照す九重の月(133)
慶応3年8月18日。伊東は往路復路ともに長州に寄っている。 関連:「伊東の事件簿」 小野版の二十八日は誤記。しかも「照す」が「そふる」に。


134
 これより三日四日も経て筑紫なる大宰
 府に着ける時月惑といふことを
かしこくも憂き世の月は大君の御袖にもなほ影やとすらむ(134)
慶応3年8月21日頃。小野版では「浮き世」


135
 皇国の御為とて弥生の頃も来りしかまた
 この秋月のもなかにまかり月をなかめて
故郷のはゝの御袖にやとるかと思へは月の影そ恋しき(112)
慶応3年8月中旬前後。国事のための九州出張時、月を見ては母を思い、センチメンタルな伊東。月をみて母や故郷を思う歌は外にも読んでいる。
136  思をのふ
故郷をわするゝとにはあらねともかゝるうき世をいかにしてまし(113)
故郷を思う心と国を思う心に揺れる気持ち。どちらかというと故郷を懐かしく思う自分を奮い立たせる歌かも・・・。
137  大宰府を立いて小倉に入りたたかひのあとあはれさひしきさまを 見て
此頃は筒石弓の音たへて影もさひしき秋の夜の月(139)
九州行道中記」によれば、慶応3年1月17日、伊東は、小倉からの避難民の惨状に涙をこぼしています。そのときのことを思い出した歌ではないでしょうか。なお、小野版では「たたかひのあと」が「城の跡」に、「筒石弓の音たへて」が「やまだのひびき絶えはてて」に、「秋の月」が「春の月」に改作されており、別の歌になっています。

138
139
 また長門なる赤間関に行て
身をくたき心つくして黒髪のみたれかゝりし世をいかにせん(144)
大君の御ため思へはますら男の袖の涙にかゝる世の中(145)
筑紫からの帰路で慶応3年8月下旬と推定。赤間関=下関。

140=小野版では「世を救はなむ」に改作されている。

関連:「伊東の事件簿」

140
 長門桜山は国の為に討死せし人々の魂
 をまつれる社なれは
日の本のにほひも高き桜山ぬるゝもうれし花の下露(146)
下関の桜山招魂社(元治元年高杉晋作が発起人となって作られた全国初の志士の招魂社)。 関連:「伊東の事件簿」 桜山は桜で有名。
141  白雲かと思へ?はいやたかき富士山となりし
 夢を見しを
白雲と見し正夢は東路のふしの高根の雪にそありける(147)
富士といえば縁起のよい初夢・・・。視界をさえぎる白雲だと思ったものが富士の雪だったというのはやはりめでたそう。そういう歌???
142  赤間関を船出して
いく度か浪間をこへて筑紫かた深き思ひを渡るなりけり(148)
筑紫への往路だと思われるので慶応3年8月中旬と推定。
関連:「伊東の事件簿」

143
144
 防州室住の港にて嵐にあいしとき
腸もくたくはかりのとま舟にひゝく浪間のあら浪の音(149)
すかたにもにけなきものはあら波に浮寝しすけき鴎鳥哉(150)
台風にあった模様です。
145  同し船に乗り合ふ人よりして国見すと
 大内山に登る日は君をしほりに頼むなりけり
 と詠みて出しけれは返へしに
もろ共に同し心をしほりにて大内山の月をなかめん(151)
熊野古道の大内山のこと?
関連:みえ東紀州熊野古道伊勢路
146  靹のみなとにて此人々にわかれ昌方ぬし
 もろともに浪花津をさして漕出ぬ船路にて
 過きし嵐にえみし舟の紀の国と淡路
 嶋根の間にてしすみしことを聞よろこひて
大君のこゝろや春や神風のふきしつめたるえみしこと船(152)
広島県福山市靹の浦。慶応3年4月にはいろは丸がここで沈没。それにしても、伊東、ほんまに大開国論なんか?って歌(笑)。ま、孝明天皇の意思だから、攘夷は大事ってことで^^;。小野版(小野版)では「こころのままに」
147  明石旅泊
聞ことに旅寝のうさのまさる哉あかしの浦の松風の音(153)
国事のためとはいえ旅寝は物憂い様子。もう京都は近いのに。ちなみに明石の浦は源氏物語の光源氏が流された場所。物語中には松風も出てくるので、それを意識した歌かも?

148
149
 武庫港にて
波風にへたてられつゝとま舟のやる方もなきうき思ひ哉(154)
なには津は近くも風にさへられてやる方そなき浮舟のうち
武庫川河口付近。古代から瀬戸内海運の中心。兵庫県西宮市と尼崎市の間。この日も物憂い様子。どうした?
149=未公刊歌(2004.9.9現在)

150

151
 生田の神前にて
月影も心もすめる神垣に声ふり立てゝ鈴むしのなる(155)

千早振神もいまさぬ世となるか生田の森にすめるえみしら(156)
155=そこまで外国人をいやがらんでも^^;。一応「大開国論」なんだしぃ。
地理的には、西から147→150・151→148・149という順になる。

関連HP:生田神社(神戸市)

152
 摂海夷人か住居となるをなけきて
浮雲をはらふ心のなかりせはなと日の本ととなへゝきやは(157)
これも兵庫開港後の歌。伊東は大開国論だが(しつこい?)、京都に近い摂海の外国人居住には反対している。



153
 同し秋またも御国の為とて尾張の国に
 行とて矢走の渡りにて
国の為おもひ入りては武士のやはせのときもなにいとふへき(158)
慶応3年9月中旬と推定。伊東は、九州出張中、下関において、長州の野村某(=野村靖?)と、前尾張藩主徳川慶勝の上京を説得することを約束し、篠原とともに名古屋に向かったという。関連:「伊東の事件簿

154
155
 鈴か山にて
秋はきの咲みたれたる鈴鹿山にこえ振たてゝ虫のなくなり(159)
わけ登る道の千種に虫の音も鈴かの峰にすめる月影(160)
慶応3年9月中〜下旬。

関連hp:鈴鹿の山風

156
 宮の舎りに人々いとなみのしけきさまを
 見て
ことしけき民草原のいとなみは言葉ことのあらきもの哉(162)
町の人々の活気と荒い京都弁(商人だとすれば近江弁かも?)にびっくり。伊東は、よっぽどおっとりした人物だったんでしょうか。
2004.9.9, 9.15 (コメントは2004.4.28, 4.29, 9.9)


(1)上京、望郷、山南弔歌等 (2)恋、志、中山道中等 (3)春の歌、真心(離縁した妻への思い?) (4)慶応3年8-9月、九州出張等 (5)武将の妻・母たちの歌など

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歌の出典:『新選組小野版』収録の「残し置く言の葉草」()内は『新選組遺聞』収録分。順番は『小野版』に沿っています。 参考HP:「東海道通信」 「東海道五十三次を行く」中山道

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