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残しおく言の葉草(1)上京・望郷・山南への弔歌など |
「残しおく言の葉草」は伊東甲子太郎の草稿を悟庵という人が撰んだ歌集です(詳しくはこちら)まずは、歌を簡単なコメントとともにご紹介し、少しずつ解釈(★)をつけていこうと思います。志に命を賭けて散った人物の残した歌です。やおい作品への悪用は絶対にやめてくださいね。 ・鈴木家蔵の原本から、素人の管理人が判読して活字化しました。誤りに気づけばそのつど訂正します。 ・各歌の後の()の数字は、小野圭次郎の「伯父伊東甲子太郎武明」『覚書』に収録された順番を示しています。小野版では、上京時の東海道中の歌に、別の時期の中山道中の歌が挿入されており、時系列が混乱していましたが、原本ではすっきりしていました。 |
番号欄がグレーで示されている歌は、元治元年10月の上京時に詠まれたと思われる歌です。 |
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甲子のとし国の為に都に登らんとて大森の 寿留賀楼を立出て 残しおくことの葉草の沢なれといはて別るゝ袖の白露 ★(1) |
元治元年10月15日、伊東、江戸出立の日。残し置く妻ウメを想う歌?以下、上京途中に詠んだ歌が続いています。 |
2 |
神奈川辺にて雨のふりけれは いかにせん積るおもひはます鏡みかけとくもる別れ路の空 ★(2) |
16日?。幕府に追跡をかわすため、神奈川で道を分った同志大村安宅を案じる歌(と推測)。 |
3 |
戸塚の駅にやとりて 忘れめや恋しきものをかり枕たひ寝の夢に袖ぬらしては ★(3) |
元治元年10月16日。妻を想う歌?式子内親王「忘れめや葵(あふひ)を草に引き結び仮寝の野辺の霧のあけぼの」(新古今)が本歌?東海道戸塚(日本橋から5番目)で宿泊。 |
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鎌倉の八幡宮を拝して 浮雲をはらひ除かん人をたたまもらせ玉ひあわれ此神(4) と種生ふる鎌倉山にちかひてそかり払はなんあらきえみしを(5) 一筋におもひ立ぬる旅衣ふみ迷ふへき道はあらしな(6) たとひ身は岩うつ波にくたくともくたくへきやは大和真心(39) |
元治元年10月17日。感傷ふっきり、ようやく国事(攘夷)にかける気持ちを歌う。この日、東海道藤沢宿(6番目)で近藤勇らと合流。鶴岡八幡宮HP 7=国事に命を賭ける思い。「真心」はこの後、何度もでてくる言葉です。注目。「覚書」では「述懐」の下に入れられてしまっている。 |
8 |
しき立沢にて 大丈夫の身にもしらるゝさひしさはしき立つ沢の夕暮の空(7) |
西行法師の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ 」(新古今)の本歌取り?鴫立沢は東海道大磯宿(8番目)近く。 |
9 |
箱根に舎りて 国の為尽す心の曇らねは晴るゝ箱根の雪の明ほの(8) |
ここからの歌はしばらく国事一辺倒。箱根は東海道10番目の宿場。箱根町HP |
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三嶋の神垣に参りて 世のために尽すまことは三嶋なるかしこき神もしろしめすらん(9) 世のうきに積るおもひは富士のねにかゝれる雪におとるへきやは(10) |
三嶋大社HP 三島は東海道11番目。三島市HP |
12 13 |
駿河富士の根にて 駿河なる富士に積れる白雪は 皇御国の光なりけり(11) 世の憂きも富士の高嶺の白雪もいつかはとけん積る斗りそ(12) |
富士宮市HP |
14 |
富士川にて 富士川の名もおもしろし岩間より雪を見る迄白波そ立(13) |
富士川は東海道吉原宿(15番目)と蒲原宿(16番目)の間にある。富士市のHP |
15 |
浮嶋ヶ原と聞て 浮嶋ヶ原に相見し時にこそやまと心のまことなりけり(14) |
浮嶋ヶ原は東海道沼津宿(13番目)の近く。 |
16 |
三保の松原にて うき雲を払ひ除かん後にこそ晴れしけしきも三保の松原(15) |
三保の松原は羽衣伝説で有名。歌枕でもある。現静岡市。 |
17 | 近江路にて おもひ入るやまと心の一筋に矢走を渡る船の数ゝゝ(29) |
矢走=矢橋(現草津市)。草津宿は東海道52番目。 |
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皇宮居日の門を拝して ちりひちの身はいかにせんけふよりは皇居のまもりともかな(32) 大丈夫の涙の雨のかゝる世に道なたかへそ雲のうへ人(33) |
元治元年10月27日頃?入京した伊東はおそらく日をおかずに御所に向ったでしょう。皇居のまもりともかなはのちに御陵衛士となった伊東の志がよく表れていると思います。 |
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都にありて 大丈夫の武き心もさきかけて世にもしられん梅か香そする(34) いかに世のしほめるものに心せよ今さきかけし梅か香そする(35) |
元治2年早春の歌?梅を天下の魁ととらえるのは、水戸尊王派に共通したところ。(ほかにも梅を詠んだ歌が多く収録されている) |
22 | 清見寺松原のけしきを思ひ出て 世のうさはよし積るとも清見潟こゝろくまなき三保の松原(31) |
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23 |
東より文おこしけるを喜ひて 筆のあと見るそうれしき是なくはいかてあつまの春をしるへき(36) |
故郷の母、江戸の妻、関東の同志、誰から届いた書簡でしょうか。 |
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因循の述懐 ふみ迷ふ人の多きもいかにせん武蔵の野へに道のあらねは(37) |
江戸の人々の因循(幕威を尊王より優先)をどう導けばよいのか悩む歌。某新選組本に、この歌は文久3年に浪士組に参加しなかった自分の因循を詠んだ歌と書いてありましたが、あきらかに間違いだと思います。 |
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もし 朝敵もあらは一死と思ひ定めて 真心の色さへ見ゆる時もあらはよし野の花とともに散なん(38) |
伊東の忠誠は朝廷に。「真心」は何度も何度も詠まれている伊東にとって大事なもの。この場合は、やはり、本居宣長(国学)的「真心」かな・・・。なお、小野圭次郎版(『覚書』)では「真心の丹きを示す時あらば身は野の花と共に散らなむ」という別の歌に改作されている。 |
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述懐 おもひきや松吹風の音絶て波かさまさる代にならんとは(40) |
小野版(『覚書』」では「波治まれる」に変えられている。 |
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懐古郷 我袖の涙にやとるかけそとも知らてや人の月をなかめん(41) 東路と雲井はるかに隔ては月のみともに見るそこひしき(42) |
28=別れのときに月をともに見ようと約束でもしたのでしょうか。慕わしい相手は妻ウメ、それとも母こよ?月をみて故郷をなつかしむ歌は他にも詠んでいます。 |
29 30 31 32 |
山南氏の割腹を弔て 春風に吹きさそはれて山桜ちりてそ人におしまるるかな 吹風にしほまんよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし 皇のまもりともなれ黒髪のみたれたる世に死ぬる身なれは あめ風によしさらすともいとふへき常に涙の袖にしほれは (43,44,45,46) |
元治2年春。親しかったと伝わる山南の死を深く悼む歌。「残し置く言の葉草」中、新選組隊士(の死)を詠んだ歌はこれら4首だけ。今のところほかの伊東の歌にも隊士(の死)を詠んだものは発見されていません。むろん、伊東の歌のすべてが現在まで伝わっているわけではないのですが、この事件で伊東の受けた衝撃の深さがうかがわれるのではと思います。また、この歌には山南の死の真相がみえかくれする気がします(こちら) |
(1)上京・望郷・山南切腹等 | (2)恋、志、中山道中等 | (3)春・真心(離縁した妻への思い?) | (4)慶応3年8.9月の九州出張等 | (5)武将の母・妻の歌(伊東の歌ではない)など |
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HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」