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元治年12月5日(1865.1.2)
【大津】一橋慶喜、松平春嶽に対し、慶喜の出陣は説得のためだと「去る雄藩」が流している「反間之説」を否定。
【芸州】長州藩、征長総督に、藩主父子の謝罪書・総督の令達の請書を提出

☆京都のお天気:晴雨交風烈 (嵯峨実愛日記)
>天狗西上
【大津】元治元年12月5日(1.2)、 禁裏守衛総督一橋慶喜は、前越前藩主松平春嶽に書を送って「賊徒」追討の出兵を促すとともに、慶喜の出陣は説得のためだと「去る雄藩」が流している「反間之説」を否定し、浮説に影響されないよう注意を促しました。

・・・賊徒追伐之儀に付・・・拙者出張之儀は全く説得方に罷出候にて、聊も追討之趣意には無之候間、其段相心得候て、容易に攻掛り申間敷旨、去る雄藩より触流し候哉にて、種々の浮説相行はれ候旨伝承致し候處、右様反間之説に落入、大義を誤候ては、列藩勤王之趣意も不相立、拙者之素意にも無之候間、自然右様之説行はれ候共、聊無斟酌、十分に取計致候様、夫々御達可被成・・・。

<ヒロ>
朝廷への上書は「浮浪之徒」だったので、今回は「賊徒」です。・・・・こういう「反間之説」ことを言い触らす「去る雄藩」はやはり薩摩藩でしょうかねえ・・・。少なくとも、慶喜はそう思っていたと思います。

慶喜は、後年の談話では、自分が出陣したのは、まず説得するつもりだったのだと回想しています(こちら)。当時は、春嶽にも本音を打ち明けることが叶わなかったということですね。「賊徒」という強い言葉もあえてなのかと思えます。

<追記>
やはり、諸藩にそのように言ってまわっていたのは薩摩藩(河田十郎)だったようです。(『波山始末』p118、134)。諸藩の間に慶喜が耕雲斎らと内通しているという噂を立てたかったのか、あるいは諸藩の戦意を失わせて耕雲斎らを無事に京都に接近させ、混乱をさらにあおりたかった(慶喜をさらに追い詰めたかった)のか、どういう意図だったんでしょう。

参考:『徳川慶喜公伝 資料篇』二p214(2018/9/10)
関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱

>第一次幕長戦
■長州の恭順謝罪
【芸州】元治元年12月5日(1.2)、長州藩家老毛利隠岐は、征長総督徳川慶勝名代成瀬正肥(尾張藩附家老)に対し、藩主父子の謝罪書及び総督の令達に対する請書を提出しました(綱要)

慶勝は、11月19日、長州藩支族(岩国領主)吉川監物に対し、三条件(@長州藩征討令に対する請書の提出、A山口新城の破却、B五卿の引き渡し)を達していました(こちら)。それにこたえるものとなります。

関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦(元治1)(2018/9/10)

【越前】天狗西上:松平春嶽、兵を率いて福井を発す。
【長州】萩藩主毛利敬親、薩摩藩に、本藩士を厚遇し、護送帰国させた礼を伝えるために、藩士山田重作を派遣(下関で、筑前藩士月形洗蔵を介して礼を伝える

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