「今日」トップ 元治1年12月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:曇天気長閑 (嵯峨実愛日記) >天狗西上 【京→大津】元治元年12月3日 (12.31)、 禁裏守衛総督一橋慶喜が、西上する元水戸浪士鎮定のため、出陣し、大津に到着しました。 朝廷は、11月30日(12月1日未明)、慶喜の懇願により、出陣を許可していました(こちら)。一橋家には固有の兵力がないため、幕府の目付・別手組・見廻役・歩兵隊などが付けられました。翌日には、水戸藩主徳川慶篤弟の松平昭徳が、在京水戸藩兵を従へて大津に着きました。前後して、加賀・筑前・小田原・桑名等の藩兵も集まり、大津で追討軍の軍議が開かれます。 参考:『徳川慶喜公伝』3p99(2018/9/10) >第一次幕長戦 ■五卿移転問題 【長府】元治元年12月3日(12.31)、筑前藩士早川養敬・月形洗蔵が長府に入り、五卿に対し、藩主が五卿に心を寄せていることを告げ、移転しない場合は征長軍が撤兵せず、天下の治乱と長州の安危は五卿にかかっていると、移転を説得しました。 <おさらい:五卿移転問題> 征長総督徳川慶勝は、11月19日、長州藩支族(岩国領主)吉川監物に対し、征長軍撤兵の三条件(@長州藩征討令に対する請書の提出、A山口新城の破却、B五卿の引き渡し)を達し(こちら)。翌20日には、筑前藩、薩摩藩、肥後藩、佐賀藩、久留米に五卿を受け取り、一人ずつ監護するよう命じました。21日、五卿移転を周旋するために、薩摩藩士西郷吉之助と筑前藩士喜多岡勇平が、芸州を出立し、23日には小倉に到りました。筑前藩士早川養敬・月形洗蔵らと協議を重ねていました。 一方、五卿は、11月17日、急進派諸隊に奉じられて、長府に入っていましたが、諸隊は、藩庁の説得に応じませんでした。 参考:『維新史』四p187-189(2018/9/9) >勝海舟@閑居中 【江】元治1年12月3日(12.31)、薩摩藩士高崎左太郎(正風)が勝海舟を訪ねました。 高崎の来訪は、11月19日(こちら)に続いて二度目です。征長戦の動きの他、ある人が薩摩藩に密告したという、老中松前崇広西上の裏の事情(一橋慶喜の江戸召喚)などをききました。 (ある密告の内容のてきとう訳)
参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p171(2018/9/10) 関連:テーマ別元治1■勝海舟@元治1年 【芸州】長州藩主毛利敬親、家老毛利隠岐を征長総督本陣に向かわせる。 |
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