1月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月9日(1864年1月17日)
【京】朝廷、後見職一橋慶喜に水戸藩士統率を委任。
【江】将軍再上洛(18)勝、薩藩吉井幸輔に対し、
大小目付が将軍上洛延期を主張し、幕議が紛糾している内情を報じる

■水戸藩&慶喜
【京】文久3年12月9日、朝廷は、11月23日に死去した水戸藩主目代松平余四麿(昭訓)の代わりに、一橋慶喜に水戸藩士の統率を委任しました

慶喜は前水戸藩主徳川斉昭の七男です。弟の昭訓死去後、水戸藩士の統率者が京都に不在でしたが、中川宮は<日頃から攘夷を主張する水戸藩士が京都に留まるのは公武一和の妨げになるので、この際、退去すべきだ>との意見でした。これをきいた慶喜は、在京の水戸藩士梅沢孫太郎に余八麿(昭武)を上京させるよう命じていたところでした。

関連:文久3年11月23日−水戸藩主名代松平昭訓死去
参考:『徳川慶喜公伝』2(2002/1/17)

■将軍家茂再上洛 /勝海舟&吉井幸輔
【江】文久3年12月9日、軍艦奉行並勝海舟は、書簡を薩摩藩士吉井幸輔に遣わし、幕府の大小目付らが総裁職・老中の議に反し、将軍上洛の発途を警衛隊の着京後に延期すべきと主張して、幕議が紛糾しているとの内情を知らせました。

前略。是は監察(=目付)輩、陸路御共御警衛の者着坂、(海路上京する将軍の)御着船の御間に合い申さず、当節柄、御警衛不測にては懸念少なからずと申す事にて、議論盛んに発し、続で、■(へん)豆従事の者、敢えて応じず、或いは引籠りなどいたし候て、総裁、閣老、大いに困却、終に今日の議と相変わり候。然れども、総裁、閣老は確乎として動ぜざる者之有り、唯々遅延相成り候哉斗り難く、若し斯くの如く候はば、此の情実(=事情)、能々(よくよく)京地に通らず候はば、(朝廷の)信を失い、(公武一和の)機を失うの端と成り申すべき哉と、深く痛心いたし候。官吏(=幕府の役人)傍議紛々たる、其の内実は、此のたびの再御上洛、真実然るべしと存じ込み候者之無く、其の内、少見ある者は、云、西国候伯の詐謀に乗ずる也と。或いは種々の流言を信じ、拒説致すべき雷同ゆへにて、小子、是を説解して云、候伯詐謀を逞しく成す者あらば、其の機会、今春已来にあり。今時にしては其の機にあらず。如何となれば、国内疲弊大に極まり、且つ、今、天下見解ある国主等、京地に集会す。此の中にして詐謀あらば、自から其の非を天下に布告するなり、執(たれ)か是を可とせんや。児輩といへ共、其の理を知る。況哉(いわんや)堂々たる候伯、一国の存亡を顧みず、皇国の御為に大義を明詳し、周旋信を天下に布(し)かんとす。其の中、万一詐謀奸黠(かんかつ)ある共、我大義を容れて疑わずんば、策略に乗ずとも何の恐怖かあらん。且つ、昭々たる皇天の照覧を如何。万も疑を容るべからず。此の言、当たれりや否や、敢て信用する者少なし。空しく切歯痛憤に堪え申さず、云々。

関連:■テーマ別文久3「勝海舟(文久3)「将軍・後見職の再上洛」
参考:『勝海舟全集1 海舟日記』p134-135(2005/1/29)管理人がより読みやすいように適宜かなを送ったり、読み下しています。()内も管理人。素人なので、著作物作成の際は、必ず出典にあたってね。

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