1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
■薩摩藩の守護職任命運動 【江】文久2年12月1日、政事総裁職松平春嶽は、島津久光父子に上京を促すために鹿児島へ赴くことになった薩摩藩士高崎五六(猪太郎)(こちら)を呼び出し、久光上京を強く望むとの伝言を伝えるとともに、関白近衛忠煕・青蓮院宮(中川宮)・島津久光への書簡を託しました。 また、久光の守護職任命運動について、(1)幕府は久光の守護職任命に異議はないこと、(2)しかし、尾張・会津・長州が強く反対しており、強いて命じれば久光に迷惑をかけることにもなるので、来春将軍上洛時まで発表を見合わせると決まったことを伝えました。 <ヒロ> 久光にずっと猜疑心を抱いてきた幕府は、なぜ久光の守護職任命に反対しなかったのでしょうか。実は、一橋慶喜も、後年の談話会で、久光の守護職任命について尋ねられましたが、この件について記憶がないようで、「三條・姉小路の勅使の際に、島津を何するということは分らぬ話だ」「島津が守護職になるなんていうのは・・・・、どうも(幕府は)それ(朝廷の沙汰)をお受けになっているか」「(幕府が請けたと聞かされて)真面目に受けるわけはない」としきりに不思議がっています。 「三条・姉小路の際に」:尊攘激派で長州シンパの公卿である両者と公武合体派の薩摩藩主の守護職任命というのが、結びつかないと意味でしょう。わざわざ自分たちの勢力を脅かすことをするわけがない、というのです。慶喜の見方は正しく、久光任命の沙汰は、三条・姉小路が江戸に向けて出発した後、その不在につけこんで?勢力巻き返しをはかる薩摩藩が画策したものでした。 「どうもそれをお受けになっているか」:久光への幕閣の猜疑心を思い起こしての発言ではないでしょうか。 「真面目に受けるわけはない」:要するに、このとき、幕府は久光・春嶽・容堂ら公武合体派大名が上京し、また近衛忠煕関白・青蓮院宮という朝廷の公武合体派と連携して、京都で「公武一致の国是」を決めようという策を進めており、久光の機嫌を損ねるわけにはいかないので、異議をはさまなかったのだろう、というのですが・・・。いずれにしても本気ではなく、いったん請けておいて、上洛してからどうにでもしようと思っていたのではないか・・・ということのようです。 会津、長州に並んで尾張が反対しているのは、尾張の徳川慶勝が弟の会津藩主松平容保から頼まれたからでしょうか?? 参考:『続再夢紀事』一・『昔夢会筆記(第八)』(2004.1.20) 関連:■テーマ別文久2「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」「会津VS薩摩(薩摩藩の守護職任命運動)」■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 |
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