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文久2年11月30日(1863.1.19)
【江】幕府、島津久光の上京を促すことを内定。
薩摩藩士高崎猪太郎が上京を促すため薩摩へ下る計画
【江】幕府、一橋慶喜・小笠原長行(老中格)海路上京内定

■幕薩連合の公武合体派会議策
【江】文久2年11月30日、幕府は、政事総裁職松平春嶽の建議(こちら)を採択し、薩摩藩島津久光父子に上京を促すことを決めました

この日登城した春嶽の帰邸後、山内容堂・老中水野忠精(和泉守)・同板倉勝静(周防守)・老中格小笠原長行(図書頭)が来邸し、前日に春嶽が提案した島津久光父子上京及び京都における公武一致の国是決定についてさらに話し合いました。一同は「いよいよ異議なく」、久光父子に上京を促すことに決まりました。

このとき、(1)久光父子の説得には薩摩藩士高崎猪太郎(高崎五六)が赴き、承諾を得られれば文久3年1月20日頃に着京すること、(2)春嶽と容堂は1月10日頃に上京すること、が話し合われたそうです。

参考:『続再夢紀事』一(2004.1.19)

■後見職・総裁職の先発上京
【江】文久2年11月30日、幕府は、後見職一橋慶喜・老中格小笠原長行に軍艦で海路上京するようにとの内命を下しました。

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小笠原は老中板倉勝静とともに、11月25日、摂海防禦を名目に容保と旗本精鋭の急西上と慶喜・将軍の率兵上京を上書しており(こちら)、また、慶喜も、11月28日、春嶽に2万の大兵を率いての上洛を主張していました(こちら)。これらは摂海・京都守衛を名目とする京都の激派制圧計画だったわけですが、結局、幕議は、上記のように、より穏健幕薩連合による公武合体推進と決まりました。しかし、摂海防禦のための慶喜らの上京自体は破棄されたわけではありませんでした。前日、慶喜は上坂計画について勅使の意向を尋ねましたが、勅使は即答を避けていました(こちら)。この日の内命は、勅使が表立って反対できないと見越してのものだったのでしょうか。いずれにしろ、この時点で、どの程度の規模の兵力を連れていくと計画されていたのかわからないのは残念です。

参考:『続再夢紀事』一・『勝海舟全集1・幕末日記』(2004.1.19)

関連:■テーマ別文久2「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」 ■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」


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