文久2(1862)/文久3 |
<要約>
幕府は、翌春の将軍上洛の下準備として、京都の尊攘急進派勢力を抑えるために、当初、慶喜らに大兵を率いさせての武力制圧を考えていた。しかし、総裁職松平春嶽から公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策の提案があり、この策で臨むことに決まった。(A.幕府の京都対策)。公武合体派連合策の中核と目された薩摩藩は、上京には同意したが、確固とした国是が定まらぬうちの将軍の早期上洛には反対で、将軍上洛延期運動を展開した。(B. 薩摩藩の将軍上洛延期運動) |
幕府 | 将軍:家茂 | 後見職:一橋慶喜 | 総裁職:松平春嶽 |
守護職:松平容保 | 首席老中:水野忠精 | 老中:板倉勝静 | |
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:近衛忠熙 | 国事扶助:青蓮院宮 |
文久2年末、翌年の将軍上洛を前にした幕府の懸案は京都で勢力を拡大している尊攘急進派対策だった。
◆後見職一橋慶喜の率兵上京・京都武力制圧策このころ、幕府にフランス軍艦が大阪湾(摂海)に入って京都に条約勅許を迫るという風評が伝わり、この噂を利用して、京都に大兵を送り、武力制圧を図ろうとする動きが起こった。すなわち、会津藩(守護職)や旗本を西上させて近畿諸藩と守りを固め、次に慶喜が大軍を率いて上京し、最後に将軍が上洛して直接京都を守護するという計画である(こちら)。11月28日、慶喜は総裁職松平春嶽を訪ねて、「近来、京都の形勢容易ならざるよし聞え」、フランス軍艦が大阪に入港して京都に迫る噂もあるが、放置しては今後近畿がどのような状況になるか痛心に堪えないので、「余自ら二万の兵を以って大坂に上り、一時彼の地に滞在して、内は京都を警衛し、外は沿岸を防御せんと欲す。然る上は将軍家にも、なるべく速やかに御上洛ありて、京都を守護したまうべきこと勿論なり」と説明し、春嶽の意見をたずねた。 しかし、春嶽は即答しなかった。公武合体派(雄藩)連合を企図していたからである(こちら)。 ◆総裁職松平春嶽の公武合体派連合/幕薩連合策春嶽の公武合体派連合計画(横井小楠発案)は、公家・大名の公武合体派が連携して、公武一和の国是を決定し、尊攘急進派勢力の伸張した京都の状況を覆すことにあった。具体的には
11月29日、春嶽は幕府にこの公武合体派連合策を提案した。慶喜や幕閣も「良策」として承諾し(こちら)、久光に上京を促すことにした(こちら)。ここに幕府による京都武力制圧策は立ち消えとなった。 【関連:■テーマ別文久2:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合による公武合体会議」「薩摩藩と越前藩の連携」】 |
将軍上洛延期運動: 文久2年12月、政事総裁職松平春嶽・前土佐藩主松平容堂の上京要請(こちら)を受けた薩摩藩国父島津久光は、自身の上京は承諾したものの、将軍の早期上洛には反対した。確固とした国是が定まらないまま上洛しては「必定例の浪人等、公卿を扇動して急激の暴論を唱え、不足の変を惹起すべければ」将軍の上洛を延期し、春嶽・容堂・自分などで、先ず京都の形勢を挽回すべきだと考えたのだ。久光は、藩士大久保一蔵(利通)と吉井幸輔に、公武合体派近衛忠煕関白・中川宮(当時青蓮院宮)にあてた建白書(こちら)をもたせ、朝廷工作のために京都に向わせた。 12月9日に薩摩を発った大久保・吉井は、22日に入京し、久光の将軍上洛延期建白書を近衛忠熙関白及び中川宮に差し出し(こちら)、関白らの賛同を得た上で、勅許も獲得し、今度は幕府に周旋するために江戸に向った。吉井は、1月2日、着府して政事総裁職松平春嶽に関白の密書を渡し(こちら)、4日、大久保とともに、春嶽・山内容堂に謁し、上洛延期案に同意を得た(こちら)。春嶽は老中の同意をとりつけると、大久保・吉井と内談し、将軍上洛延期の朝命が出るよう周旋することにした(こちら)。15日、朝命周旋のため、大久保・中根雪江(越前藩重臣)が入京したが、尊攘急進派に牛耳られた京都の情勢は厳しく、20日、近衛関白らは将軍上洛延期の朝命発令を見合わせた(こちら)。(23日、近衛は関白を辞職(内覧は継続)。2月13日、将軍は江戸を出立し、陸路上洛の途についた(こちら)。 関連:■テーマ別文久2「薩摩藩の将軍上洛延期運動」文久3「薩摩藩の将軍上洛延期運動2」 |
第2の勅使東下と攘夷奉勅 天誅と幕府の浪士対策
(2001/6/7)
<主な参考文献>
『再夢紀事・丁卯日記』・『続再夢紀事』『官武通紀』・『大久保利通日記』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜増補版』 |
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