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元治1年12月28日(1865.1.25)

【小倉】肥後藩主弟長岡良之助(護美)、島津久光に書を送り、
将軍進発、有志諸侯の一橋慶喜補佐による「一和基本」の決定の急務を論じ、
そのために自ら慶喜に入説する決意を述べる。

☆京都のお天気:快晴霧深寒気烈 (嵯峨実愛日記)

>有志諸侯召集問題
■肥後藩主弟長岡良之助(護美)の周旋
【小倉】元治元年12月28日(1.25)、肥後藩主弟細川良之助(護美)は島津久光に書を送り、将軍進発、有志諸侯の上京・一橋慶喜の補佐による「一和基本」の決定が急務であると論じ、そのために自ら書状を送って慶喜に入説する決意を述べました。

・・・長州一条は大略鎮静には帰したものの、激徒・正義徒に分派して内乱となりそうですが、萩へ出張した大小監察からは鎮静の見込みが立ったと知らせがありました。500〜600の残党なので、僕などは、無用の屯集に及ばず、一刻も早く鎮静し、国力疲弊に至らぬよう尽力しています。「筑狸」は相変わらず言語に絶します。「先頃来万事西郷吉之助と申談候末、於越邸面語仕、大慶に存申候。実以人物感服仕候」。
武田耕雲斎が帝都に迫り、横浜の外国の事情は難しく、「幕吏老奸等」のことは慨嘆の至りです。「天下之基本」が立たぬ間は「外患内憂」は不可避だと考え、密かに私的な見込を申し上げるので御採択を願います。

大樹公を御進発にいたし、各国有志の諸侯が参集し、賢兄(=久光)、鋭鼻公(=春嶽)、長面公(=宗城)などが一橋黄門(=慶喜)を補佐し、「万事一和基本」を定められ、(そのうえで)最早異論があって向かう者には「兵力縦横之御処置」よりほかありません。また、外国の御処置については、両三港の論にこだわらず、ただ「万民物価沸騰之憂」を除き、「航海富国強兵之基本を立」てるよりほかありません。

「私見込」では・・・・一橋黄門の御心次第で、「当春之儘」ではとても相成らないため・・・私より一橋黄門が真に賢才を御挙用にならねばならぬことを申上げ、もし一橋公が御同意になれば是非賢兄も御上京いただきたく、密かに伺い奉ります。私も密かに申し上げるので密かにご教示いただきたい。私は是非是非一橋公へ申し上げる心得であり、幾度も書状を差し出そうと存じています。

宇和島長面公の密書をお受け取りになったか、貴答を願い奉ります。

近日は勇気鬱屈の余り、越前大守に申し入れて狩りを行い少しは放念しました・・・(後略)

<ヒロ>
良之助の「見込」は、彼が12月前半頃に伊達宗城に伝えた内容と同じになります(こちら)。宗城経由で久光に自分の「見込」を知らせたつもりであったものの、久光から何の回答もなかったため、直接「見込」を書き送ったようです。

良之助は、慶喜から信頼を寄せられているためか、書状のやりとりで説得できると思っている様子です。

一方、久光は、この春の慶喜との対立がトラウマになっているようで、翌元治2年1月に記した良之助への返答では、彼の「見込」に同意はするものの、書面では困難なので上京して尽力するよう勧める一方で(「書面にて幾度御申立御座候共去春之形勢を以観察いたし候へは大に六ヶ敷、いつれ貴君乍御苦労御登京御尽力有之度」)、自身は体調不良で気力もないので陰ながら助力するると述べています

参考:『島津久光公実紀』ニp314-319(2019/1/1)
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【江】薩摩藩士柴山良助、国許の大久保一蔵に、幕府及水戸藩の情勢を報じる

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