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元治年12月27日(1865.1.24)
【京】一橋慶喜、東帰する若年寄立花種恭から上京の目的を慶喜召喚と聞き出し、暫時滞京を求める。
立花、固辞して東帰。
【芸州】征長総督徳川慶勝、萩藩征討出征諸藩に撒兵帰休を命ず。

☆京都のお天気:雲収天遠晴 (嵯峨実愛日記)
>一橋慶喜の江戸召喚問題
■若年寄立花種恭の上京
【京】元治元年12月27日(1.23)?、前日に天狗党追討から帰京した禁裏守衛総督一橋慶喜は、入れ違いで東帰する若年寄立花種恭に上京の問い質し、暫時の滞京を求めましたが、立花は固辞して退京したそうです。

1月29日に在府の薩摩藩士柴山良助が記した報告書によれば、立花は旅装のまま慶喜に会ったそうです。そのやりとりのてきとう訳は次の通りです。
この節、御手前が御上京になったのは如何なる御用筋なのか。
立花 その儀は、兼て御承知でもありましょう。
拙者は出張中で右様の儀は承り得る訳がなく、委細承りたい。
立花 今度、私が上京を仰せつけられたのは、ほかでもない、常野の御処置をはじめ、いろいろ公方様が御心痛遊ばされているものの、外に御相談遊ばされる御方もあらせられず、ことにまた「当分何か御疎ゝゝしふ被為隔候様」で、一応(慶喜が)御東下の上、なお彼是ご相談遊ばされるお気持ちもあらせられるべしとの御事につき、御召返しの御内命を蒙り、罷り登りました。
その儀は身に余りての面目、有難き儀ではあるが、不肖の拙者、京都のことさえ行き届きかね、実に心配致すことであり、まして関東の「御政事」の御相談等は存じ掛けもない。しかしながら、その儀は表通りの御沙汰になれば、またまた一己の愚存も申し述べよう。まず御手前には今暫時滞京いたされるべきである。
立花 差し急ぎの御用があり、最早出立仕りますので、是非罷り下りたく。

<ヒロ>
慶喜はわかっていた上での余裕のやりとりにみえます。こんな具体的なやりとりを、柴山良助はどこから聞きつけたのかも気になります。当事者である立花か彼に近い筋しかないですよね。薩摩藩の情報収集能力ってすごいです。

(おさらい)
幕府は、11月19日、老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための率兵西上を命じました(こちら)。崇広は23日に兵を率いて陸路西上した。真の目的は上京・慶喜の江戸連れ戻しだったとされます(こちら)。しかし、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していました。12月13日、草津に到着した崇広は、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせました。崇広の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂されました(こちら)。崇広は12月15日に入京しましたが、18日、朝廷は、崇広への応答は慶喜帰還まで見合わせることを決定し、守護職松平容保・所司代松平定敬は崇広に面談して、将軍進発促進のための東帰を説得しました(こちら)。二条関白・中川宮もこれに加わり、説得された12月23日、崇広は、容保・定敬に対し、東帰して将軍進発に尽力することを誓い(こちら)、24日に退京しました。

一方、種恭は、12月7日に改めて上京を命じられ 10日に江戸を出立、20日に海路着坂し、22日に着京、23日に入京を届け出ました。(その翌24日に崇広が東帰してしまったため、単独で)26日に二条関白に閲し、慶喜の東下の許可を内願しましたが、二条関白には却下されていました(こちら)

参考:『玉里島津家史料』三p53(2019/1/26)

>第一次幕長戦
【芸州】元治元年12月27日(1.24)、征長総督徳川慶勝は、長州藩征討出征諸藩に撒兵帰休を命じました。(綱要)

長州藩の恭順状況を巡検してきた巡検使の報告を受けてのことになります。また、幕府に撤兵の次第を上申させるるため、大目付永井尚志・目付戸川鉾三郎に、藩士千賀与八郎・同長谷川総蔵を副えて江戸に遣します(永井らは1月11日に江戸着)。ちなみに、使者は慶勝の長州処分の意見書(藩主父子の隠居・剃髪・永慎、親族の家督相続、領地10万石削減、等)も携えていました。

(おさらい)
征長総督府は、11月18日、元三家老の首級を改めると、朝廷・幕府に長州藩主父子恭順の情及び攻撃猶予の令達を上申し、19日、吉川監物に、降伏の条件として、@謝罪書の提出、A山口新城の破却、及びB五卿の引き渡しの三条件を達した(こちら)。11月25日、藩主父子は萩城外に蟄居し、12月5日、長州藩(保守穏健派の掌握する萩藩庁)は征長総督徳川慶勝(前尾張藩主)に、藩主父子の謝罪書・総督の令達の請書を提出しており(こちら)、8日、慶勝は諸藩の重臣を呼び出し、長州藩主父子恭順待罪、五卿の筑前移転、山口城破却を告げるとともに、長州藩処分意見書の提出及参集を慰労した。慶勝は、12月11日に、尾張藩家老石河光晃を名代とし、参政千賀与八郎及び幕府目付戸川鉾三郎等を随従させて、長州藩恭順の状況を巡検させること決した。巡検使は12月14日に芸州を出立し、19日に山口、20日に萩を廻って芸州に戻った。これより先12月15日夜には急進派(武備恭順派)高杉晋作らが下関で挙兵して藩庁に反乱を起こし(こちら)、19日、藩庁は、かねて投獄していた急進派の前田孫右衛門ら七名を処刑していた。

<ヒロ>
撤兵条件である山口城の破却も五卿の移転も完了していないし、おまけに武備恭順派が萩の藩庁に対して反乱を起こしているわけですが、慶勝は気にならないんでしょうか。(単に、ちゃんとしなさいよと勧告するだけ)。避戦の方針と恭順の確認をいい加減にすることは別次元なはずですが、このゆるゆるな撤兵は何故?やっぱり、年内に片づけて正月を迎えたかったというのが第一だったり・・・??それとも、これも西郷の入れ知恵??(長州処分意見も西郷と似通ってます)

関連:■「テーマ別元治1」第一次幕長戦(元治1)(2018/9/23)

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