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元治年12月15日(1865.1.12)
【京】老中松前崇広、歩兵部隊を率いて陸路入京/
【長州】高杉晋作、功山寺で挙兵

◆12/14【天狗西上】一慶喜用人原市之進、備前藩士井上仙太郎を京都に遣し、因幡藩士安達清一郎等に依嘱し武田耕雲斎ら等の処分寛典の周旋を求める。【芸州】長州恭順の実状巡検使、徳川慶勝名代石河光晃・幕府目付戸川鉾三郎、芸州出立【宇和島】前宇和島藩主伊達宗城書を島津茂久/久光に寄せ、征長の姑息を慨し、時事に関する所見を述べる。
☆京都のお天気:晴寒気凛烈及深夜雪下 (嵯峨実愛日記)
>老中松前崇広の率兵上京(慶喜の江戸連れ戻し計画)
【京】元治元年12月15日(1.12)、老中松前崇広が、歩兵部隊を率いて陸路入京しました

<おさらい>
松前老中は11月19日に西上を命じられ(こちら)、11月23日に江戸を出立し、中山道を通って西上していました(こちら)。長州表の御用が目的だとされていますが、その裏の目的は、海路西上予定の若年寄立花出雲守とともに、水戸の血筋で「非常の大胆、専不羈の御志」である一橋慶喜を京都から連れ戻すことだとされています(こちら)。しかし、その慶喜は、京都に接近する元水戸浪士の追討のため、12月3日に出陣していました。12月13日、草津に到着した松前老中は、京都所司代に対し、幕命による慶喜留守中の京都警衛強化のための急遽上京を知らせており(こちら)、14日、朝廷に入京を許可されていました。

なお、慶喜の江戸召喚の噂は、10月下旬には京都に届いており、守護職松平容保が幕府に異を唱えていました(こちら)。11月下旬には、薩摩藩家老小松帯刀が、慶喜と面談し、幕府による一会桑の江戸召喚&朝廷軽蔑回帰阻止には、老中取り換えか諸藩・朝廷と連携した政変を起こすしかないと勧めていました(こちら)。帯刀は、また、12月13日付の国許の大久保一蔵への書状の中で、江戸からの情報として、崇広の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと記しています(こちら)

関連:テーマ別元治1 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ(2018/9/20)

>有力諸侯召集問題
■長岡良之助(肥後)⇒伊達宗城(宇和島)の周旋
【京】元治元年12月15日(1.12)、前宇和島藩主伊達宗城は前越前藩主松平春嶽に書を送り、征長酢督府の進撃中止の「姑息」を嘆くとともに、肥後藩主弟長岡良之助の将軍進発・有志諸侯集会による国是決定論を伝え、協力を求めました。(書簡の福井到着は翌元治2年1月2日。春嶽の返事は1/8
(関連部分のてきとう訳)
・・・四境討手も(11月)18日進撃と勇んでいたところ、伏罪云々で見合せの様相となり(11/1812/8)、実に失望している。もっとも「真実伏罪」であれば無法に攻撃せぬのは「王者之の師」と言うべきだが、「(征)督府姑息絶言語候。何を以朝敵逆罪ニ当り候哉不可解」であり、御卓論をうかがいたい。このような無用の永陣になれば大小藩共に疲弊甚だしく、「長賊」が落着してもまた征伐があるかもしれず、各藩命令に応じた出陣をすべきか、とても今の形では基本も定めかねる。先日、小倉(に出陣中の)肥後長良(肥後藩主弟・長岡良之介)に用事があって目付を遣わしたところ、長良からの親書にもその点を申し越してきた。その主意は「大樹公を御進発に致し閣下御始大芋(=島津久光)長良抔」の「有志諸侯集会」し、「縦横の兵威力」で処分を決し、外国人(=開港は)二港または三港でもよいが、「天下万民物価騰貴之苦除去之義大急務云々」というものであった。この機会に到れば、速やかに御上京になり、卓論をもって十分に説破し、「航海親交富国強兵之一大基本御確定」あらせられたい・・・(後略)

宗城は、前12月14日には島津久光に同じ趣意の書簡を送っています。
(関連部分のてきとう訳)
・・・今程は当公(藩主島津茂久)も御出陣だろうか。しかし、「尾督府姑息」で進撃も差し止められ、空しく御滞陣と察し奉る。「何ヲ以結末朝敵至当之紫音処置候哉亦攻掛候ニ付伏罪云々ニ付諸将之衆議尋問何ヲ以握権四道(=長州の攻め口の四道)之式候哉。幕老奸水浪徒征長姑息外夷来摂党実ニ長大息」の次第である。・・・今日のような「無用之長陣」では何を以て今後の基本を定めるのか。当今の急務策について、長良に説があり、何分、御密談の上の御協力、朝野のため御粉骨を渇望奉る。
(臘月14日付大隅明公閣下宛伊予書簡)

<ヒロ>
宗城は、西郷吉之助が裏で画策していることには気づいていないようです・・・。

参考:『続再夢紀事』四p1-2、『島津久光公実紀』ニp304-305(2019/1/1)
関連:◆11/23【小倉】長岡良之助、久光に書を送り、国是決定がなければ征長も十分決着しないと述べる 

>長州の内乱
【下関】元治元年12月15日夜、長州藩士高杉晋作が、急進派(武備恭順派)による藩政掌握を目指して、下関の功山寺で決起しました

これより先、萩の藩庁が保守派(純一恭順派)に掌握されたため、身の危険を感じた急進派(武備恭順派)の高杉晋作は10月下旬に萩を脱出し、筑前に亡命していました。しかし、禁門の変に出陣した元三家老・四参謀の処刑を知り、保守派を武力で打倒しようと11月下旬に帰国し、急進派諸隊に働きかけました。この頃、諸隊は、長府に屯集して、萩の藩庁(保守派政権)と対立していましたが、奇兵隊総督赤禰武人は、外患が迫る中の内戦は避けるべきだと考え、11月下旬に萩に向かい、藩庁と交渉して、諸隊の鎮静と引き換えに急進派の処分をやめることを約束させていました。

高杉は、諸隊に下関新地の会所襲撃を提案しましたが、萩から戻ってきた赤禰は当然反対しました。高杉は、赤根を、自分のような三百年来の家臣とは違う「一土民」であり、国家や君公の危急がわからないのだと侮辱し、武士と土民を比べるなと激昂したそうですが、諸隊の賛同を得られず、下関に去りました。そして、下関にいた伊藤俊輔(力士隊を預かっていました)の説得に成功し、12月15日夜、力士隊と遊撃隊(の一部)とともに、功山寺で決起しました。

参考:『維新史』四、『高杉晋作』(一坂太郎)(2018/9/20)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦(元治1)(2018/9/10)

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