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文久3年10月1日(1863年11月11日)
【京】伝奏、松平容保に浪士取締の命を幕府親藩に伝えさせる
【長】藩士に「君側の奸」を除くと達す

■浪士対策
【京】文久3年10月1日(1863年11月11日)、朝廷は京都守護職松平容保に対し、浪士取締・処分の命令を幕府親藩(譜代)に伝えさせました。しかし、外様には(朝廷が)別途伝えるとしています。(日付は『七年史』より。『京都守護職始末』は11月8日説)

沙汰書では、朝廷は、浪士を厳重に取り締まるよう命じる一方で、朝廷への忠志を達する道が途絶えては惜しいので、引き取り手のない浪士については10万石以上の大名が召抱えるよう命じています。これに関連し、諸藩に召抱えを希望する浪士のために、淀・山崎の間に一ヶ所、大坂に二ヶ所、集会所を設けるようにも命じています。

<ヒロ>
『京都守護職始末』によれば、容保は浪士処分について、主人のない浪人はすでに関東において新徴組として召し使っており、一件を幕府に委任するよう建議しましたが、採用なく布告されてしまったとのことです。

また、朝廷が、さまざまな布告について、親藩・譜代には幕府から命令を出させるのに対し、外様には別途朝廷が直接命令を出すという点について、『七年史』では「政令二途にでて、勢い彼我を成し、東西阻隔せざること能わず」と嘆き、「その中に立て、淳々として正道を踏み、公武の一和を謀らんとする肥後守容保が心事、比する物なし」と容保の苦労を記しています。

しかし、この後、島津久光を始めとする公武合体派の入京により、容保の京都政局における孤立は緩和されていくことになります。

参考:『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』

■長州の進発
【長】文久3年10月1日、長州藩主毛利敬親は藩士を集め、「君側の奸」を除くと達しました。

「叡慮の向わせらるる所尽力に付て、去秋申し聞け候艱難は即ち今日の場合に候得ば、忠節確守の外更に他念之無く、先ず君側の姦を除き、御国内の賊を滅ぼし、覚に攘夷の大功を成し、宸襟安ずべしと決心せしめ候條、此旨相守り奉公を遂げるに於いては本懐たるべく候」

これを受けて藩士は「朝政挽回」の策を議論し、次のように具申しました。
「此度、朝政御回復の為、七卿御一同御上洛遊ばさるべしとの事仰せ出され候。右御回復に付ては御直筆を以て仰せ聞かれ候様、君側の姦を御除き成られず候ては相整わざる儀に付、全軍の御手組御手配等厳重に仰せ付けられ、別して奇兵の御繰り出しは神速に之無くては機会を失い候。必勝の策略御一定の御目途相立ち候様仰せ付けられ候事」

<ヒロ>
とはいえ、藩庁(周布・高杉ら)は即時の上京は時期尚早だと視野に入れておらず、進発にはやる主戦派の慰撫に努めていました。

■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史』p554

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