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文久3年9月29日(1863年11月10日)
【江】老中、横浜鎖港談判困難を容保に報せる
【京】越藩青山小三郎、薩藩吉井幸輔を訪問
【越】春嶽、大久保一翁に返書。

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■横浜鎖港問題
【江】文久3年9月29日、江戸の老中は連署して、横浜鎖港談判の困難さを京都守護職松平容保に伝えました。

幕府は交渉のため、仏・英・蘭・米の四国公使を軍艦操練所に呼び出そうとしていましたが、公使たちは<書簡で足りるだろう。江戸に向かっての会見は必要なし>と会見を拒んでいました(こちら)。また、外国奉行が横浜に出張しても容易に会ってくれない状況でした。幕府は容保宛の書簡で、これらの事情を陳述したあと、<結局戦争になるのではと心痛している。なるだけ外国に信義を立てるようしたく、精々苦心をしているが、何分にも困難であり、一同心配している。今後の情勢がわかり次第報せるつもりである。京都の模様はどうだろうかという点もこちらでは一同心痛している・・・>と注意を喚起しています。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉「将軍・後見職の再上洛」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『七年史』ニ・『徳川慶喜公伝』2(2001.11.10)

【京】文久3年9月29日、越前藩青山小三郎は、薩藩吉井幸輔を訪問し、江戸の情勢をききました。

吉井は同月12日に江戸を出発し、25日に入京していました。吉井は青山に、<先月14日、米蘭両国の公使を築地の操練所に招き、老中板倉周防守・水野和泉守・井上河内守殿列座で鎖港の談判を開かれたが、両公使は用意ならざることなので英仏その他の公使に諮り、そのうえで本国にも問い合わせてから返答に及ぶと申し出た(こちら)。16日(ママ)には英仏両公使も招かれたが、米蘭両公使に相談があった事なので承るには及ばず、本国に問い合わせた上で回答するとの返事で、会合にはならなかった(こちら)>などの話をしたそうです。

同日、越前藩側用人島田近江は町奉行永井尚志を訪問しました

このとき、永井が<先月18日の一変動後は、追々静謐になり、市中も平穏になった>と言うので、島田が<静謐と見受けられるが、公武の御合体は未だ整うとまでいかないときく。このさい、関東より全権の方が出京あって然るべきか>と尋ねると、永井は<その事はいまだ承っていない。上様御上洛の事も仰せ出されにはなったが、その後、御準備に取り掛かられてはいないやに聞く>と返答したそうです。

また、島田が<過般、酒井雅楽頭殿(老中酒井忠績)が上京されたが、間もなく帰東されたときく、これは何故か>と尋ねると、永井は<雅楽頭殿は先般の変動により、取りあえず天機伺いとして上京されたが、関東においては攘夷鎖港の件を御取調べ中でもあり、また、朝廷においても鎖攘の意思は御動きがなく、一日も早く談判するようにとのことなので、他事には及ばれがたく、取り急ぎ東下されたのである>と答えたそうです。

<ヒロ>
春嶽の上京の目処がついたため、情報収集に回っているのでしょうか。

関連:■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」「松平春嶽再上京」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.3)
【越】文久3年9月29日、春嶽は大久保一翁に返書を認めました。

参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.2)

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