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■守護職の財政 【江】文久3年10月3日、幕府は会津藩江戸藩邸の留守居役を呼び出し、京都守衛のため金5万両を下賜するとの命を伝えました。(9月3日?) 参考:『七年史』ニ(2001.11.13) ■久光上京&参豫会議へ 【京】文久3年10月3日、薩摩藩国父島津久光が藩士・郷兵各六隊を率いて入京しました。その兵は約1万5千人とも噂されたそうです。 久光の上京はかねてから孝明天皇−中川宮の期待するところでした。 孝明天皇は、4月22日には、薩摩藩を上京させるよう中川宮に命じていましたし(こちら)、5月29日には久光に上京・「姦人を掃除」せよとの密勅を下していました(こちら)。7月11日には公式に召命の沙汰が出されますが(こちら)、当時、激派に掌握されていた朝廷は 17日に久光の召命を取り消し、孝明天皇の激怒をかっていました(こちら)。 8.18政変(こちら)直後の8月28日には久光の上京を命じる勅が下り、久光は9月12日に鹿児島を出発していました。 会津藩と薩摩藩は、政変以来、急速に接近していましたが、久光は入京後、ただちに重臣小松帯刀を容保に遣わし、政変来のことを謝したそうです。容保も重臣を答礼に遣わして交誼親睦を暖めたそうです。一方、会薩の接近を喜ばないものによって「肥後守は薩奸の愚弄に甘んじている」との落書が張り出されたりしたそうです。 関連:■テーマ別文久3年:「島津久光召命と激派の妨害」「参与会議へ」■薩摩藩日誌文久3 参考:『七年史』ニ『徳川慶喜公伝』2(2001.11.13) ■春嶽再上京 【京】文久3年10月3日、越前藩酒井外記は、この年3月の松平春嶽の総裁職無断辞職・帰国に関する御詫書を伝奏野宮定功に提出しました。 春嶽は3月の無断辞職・帰国(こちら)によって逼塞処分を受けましたが、5月に幕府はこれを解除していました(こちら)。ところが、朝廷は春嶽の逼塞が解除されたとは認識しておらず、8月の政変後も春嶽は上京することができませんでした(こちら)。この状況を案じた守護職松平容保は、伝奏から春嶽が御詫書を提出すれば許されるだろうとの内示を得て、これを越前藩に報知しました(こちら)。春嶽は容保の助言を容れて、この日、詫書を提出させました。 関連:■テーマ別文久3年:「春嶽の総裁職辞任」「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.2) ■長州藩進発 【長】文久3年10月3日、長州藩庁は奇兵隊に下知を待つようにとの諭書を下しました。 「 奇兵隊中 右、此度御両殿様問御上京被遊候節、御使方に付ては御思召之旨も被為在に付、七卿御警衛方堅固相勤、不怠調練等相励、何分御下知相待候様被仰付候事」 奇兵隊隊士の中には、藩庁が速やかに出兵しないことをみて、自ら事を起こそうとする動きがあり、それを諭そうとしたのだそうです。 ■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史 四上』p555 |
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