11月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年9月24日(1862.11.15)
【江】攘夷奉勅:山内容堂、松平春嶽に攘夷奉勅の覚悟を促す
【江】中根靱負、大目付岡部長常に「攘夷」の意味を説く

■攘夷奉勅問題
【江】文久2年9月24日、前土佐藩主山内容堂は、政事総裁職松平春嶽に攘夷奉勅の覚悟を促しました。

この日、容堂は、屋敷に春嶽を招き、京都からの内密の報告について細々と伝えた後、
  1. 京都の今日の形勢では、幕府において攘夷の朝旨を異議なく奉じる以外ない
  2. しかし、実際に断行する場合は、朝旨をよく確かめた上で、万全の策を立てることが肝要である
との意見を述べました。

<ヒロ>
ちなみに、春嶽同様、容堂自身も開国論です。容堂は、この後も、攘夷奉勅を運動しますが、その本音として、「結局大開国ならざれば富強の実は挙げがたし。然るに此節攘夷の叡慮遵奉云々申せるは実は一時人心を鎮静せしむる為の策に外ならず」とその真意を打ち明けたそうです。(10月19日の「今日」で)

***
【江】同日、春嶽は大目付岡部長常(駿河守)に中根靱負(雪江)を遣わし、長州の意味する「攘夷」を説かせました。

長州藩の唱える攘夷論を幕府の諸有司は「暴論」だと批判しており、先日、周布政之助が岡部を訪れて議論したときも、物別れに終ったそうです。これを聞いた春嶽は、現在の「攘夷」とは「国体の汚辱ともなるべき時に方りては聊(いささか)顧慮せず干戈(かんか)を用うるの覚悟を定め置くべしとの意」であるのに、諸有司は「天保以前に黒船と見受たらばニ念なく打払うべしと布告せし意味とのみ解釈して今日の時勢には行われざる説」と考えているため、長州藩との論議も物別れに終るのだ・・・と憂慮し、中根を遣わしたのだそうです。

<ヒロ>
攘夷奉勅問題について、春嶽は破約攘夷論を唱えていました(こちら)。ただし、<必戦の覚悟を定めて条約を破却し、全国諸侯の公議によって国是を決める(自主開国へ)>という自主開国をみすえた必戦・破約攘夷論です。長州藩も攘夷奉勅ですが、春嶽と完全に同論なのかどうか、不勉強なためよくわかりません。もっとも、前日、春嶽を訪れた長州藩士(周布政之助ら)は、春嶽の意見に同意を示しています(こちら)。この日、春嶽が中根を派遣したのも、それがあったからでしょう(周布らから岡部長常説得に関するなんらかの依頼もあったのかもしれません)。ただ、周布らが春嶽の論に同意したのが、本心なのか春嶽の歓心を買うため(春嶽経由で幕閣に長州藩に好意をもってもらうため)の方便なのか、わたしにはまだ見極めがつかないのです。また、周布らとつながりのある京都で活動中の激派たち(長州藩士久坂玄瑞ら。さらに久坂らを通して武市半平太ら土佐勤王党)のいう「攘夷」が果たして必戦の覚悟だけを意味していたのかどうかも、よくわかりません。(勉強中です。詳しい方、ご教示くださいませ〜m(..)m)

○大目付岡部長常(駿河守)
最近よく登場する大目付岡部長常ですが、長崎海軍伝習所の目付、長崎奉行、外国奉行を経て、この年の6月に大目付(旗本の最高位)に就任した人物です。長崎奉行時(安政4年12月〜文久元年11月)、日蘭通商条約の締結交渉を担当しました。また、製鉄所建設、踏み絵の廃止、英語伝習所創設、蘭医ポンペ・松本良順らの解剖、病院の設立、貧民医療などにも便宜を図り、ポンペには、日本人中の文明人と高く評価されているそうです。開明的な幕臣の一人ですが、残念なことに慶応2年に42歳で死去しています。(ちょっとツボにはまる人物です。ほかにも気になる幕臣が何人もいるので、幕臣小史のコーナーを作ろうかと検討中です)

関連:■テーマ別文久2「国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」 ■越前藩日誌文久2
参考>『続再夢紀事』一、『旧幕府』一、『明治維新人物事典』(2003.11.15、11.16)

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