11月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年9月23日(1862.11.14)
【江】攘夷奉勅:長州藩士、春嶽を訪れ、幕府の攘夷議決を迫る
【京】京都町奉行与力渡辺金三郎、同心森孫六・大河原重蔵暗殺。

■攘夷奉勅問題
【江】文久2年9月23日、長州藩士が政事総裁職松平春嶽を訪問し、幕府が速やかに攘夷を議決するよう申し入れました。

この日夕八ツ半、長州藩小幡彦七郎、周布政之助、佐久間佐兵衛、中村九郎、桂小五郎が越前藩邸を訪問しました。

会話の概容は以下の通り
長州藩士 先だって藩主が確認した叡慮は言うまでもなく、京都においては公卿・その他「兎角(破約)攘夷ならずては適いざるよし」なので、幕府も速やかに決定されたい。一旦攘夷を決定した上で、自主的に国交を結ぶことは勿論である
春嶽 自分も「素より叡慮は遵奉する決心」である

長州藩士は、大変満足し、六ツ半ごろ、退邸したそうです。

<ヒロ>
この日の発言をみていると、在府長州藩士は、春嶽の自主開国を見据えた必戦・破約攘夷に同意しているようですが・・・。

ところで、「先だって藩主が確認した叡慮」とは、閏8月27日に長州藩主に攘夷決定周旋の沙汰が下されたこと(こちら)を指すのではないかと思います。 9月18日に薩長土藩主は、朝廷に対して、幕府への攘夷勅諚下賜の建白を行い(こちら)、20日、朝廷は建白書を嘉納し、攘夷勅諚の伝達のため三条実美を別勅使・姉小路公知を副使に任命にしていますが(こちら)、当時の京都と江戸の距離ですから、攘夷別勅使の情報を江戸の長州藩邸が知っていたかどうか、勉強不足でちょっとわかりません。

一方、幕府は、9月16日慶喜の上京による開国上奏を内定しましたが、19日に政事総裁職・松平春嶽が幕閣に破約攘夷を提議し(こちら)、それに反対する老中・有司らと議論が続いていました(こちら)

参考:『続再夢紀事』一(2003.11.11)
関連■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」 「長州藩と越前藩の連携」 ■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2

■公武合体派排斥・「天誅」
【京】文久2年9月23日、京都町奉行与力渡辺金三郎、同心森孫六・大河原重蔵が暗殺されました。

渡辺・森・大河原と上田祐之丞らは安政の大獄時、所司代酒井忠義の下、「志士」を探索・捕縛したため、激派に恨まれていました。幕府は「天誅」が安政の大獄関係者に及ぶのをみて、彼らを江戸に呼び寄せようとしました。彼らは22日夜(23日未明)に密に京都を発ち、近江に投宿していました。彼らの東下をききつけた薩長土激派(『維新史』によれば土佐:岡田以蔵・平井収二郎ら12名、長州:久坂玄瑞・寺島忠三郎ら10名、薩摩:田中新兵衛ら2名の合計24名)は近江まで追跡し、旅宿に乱入して渡辺・森・大河原を討取りました。上田は他出しており一命をとりとめた(『維新土佐勤王史』とも、重傷を負って逃れたが絶命した(『維新史』)ともいわれるようです。暗殺を指示したのは土佐藩武市半平太だとされています(『維新史』)。

翌24日、3人の首は粟田口に晒されました。

参考:『維新史』三(2003.11.11)
関連■テーマ別文久2「公武合体派排斥・「天誅」


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