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文久2年10月20日(1862.12.11)
【江】攘夷奉勅:幕議、開国上奏から攘夷奉勅に一転・
勅使優待も内決/
【江】側用取次・大久保忠寛(一翁)の大政奉還覚悟の開国上奏論

■破約攘夷奉勅VS開国上奏
【江】文久2年10月20日、慶喜の説得により、幕議は開国上奏から攘夷奉勅に一転しました。また勅使待遇改善も内決しました


前日、登城停止中の総裁職松平春嶽に、前土佐藩主山内容堂の攘夷奉勅論を受け入れることを表明した後見職一橋慶喜は、老中板倉勝静・水野忠精・老中格小笠原長行らを呼び出して説得し、その結果として、幕議も一転したのだそうです。(「一橋日記」『徳川慶喜公伝』)

ただし、勅使優待については、議決ではなく、内定だったようです。

『続再夢紀事』によれば、容堂は20日の夜、大目付岡部長常を呼び出し、<勅使優待の件について先日来種々申し立ててきたのに、幕議は未だに一決しないときく。その優柔不断は実に驚くほかない。この上は容堂の周旋では行届かない旨を京都の朝廷に断り、長州・薩摩の諸士へも(幕府とは)もはや関係を絶ったと伝えて、早々国許へ帰るつもりである>と「例の」大声で責め立てたそうです。岡部は非常に辟易して<そのようにお見捨てになっては今後天下はどうなりましょう。とにかく今一度登城されて老中らへ直接お話になることをお願いします>と言ったそうです。

そこで、翌21日に登城した容堂に対して、慶喜や老中は<叡旨は固より奉承の覚悟であり、勅使の待遇も旧例にこだわらず敬礼を加えるつもりである>と説明したそうです。

この件について、21日に越前邸を訪問した容堂は、春嶽に向って、「拙者が大声を発せし為駿州(岡部長常)の辟易せしは随分面白かりしか廟堂の俄かに形勢を変ずるに至りたるは拙というべし。一橋も案外の無気力にていうにたらず」と語ったそうです。

<ヒロ>
開国派の容堂は、本音では、やはり、幕府に積極開国で押してほしかったということでしょうか??

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.12.11)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:開国VS破約攘夷」「勅使優待問題

■大久保忠寛(一翁)の大政奉還覚悟の開国上奏論
【江】
文久2年10月20日、側用取次大久保忠寛は、攘夷は国家のために得策ではないと開国を上奏をすべきであり、さらに、朝廷が開国論を受け入れずに攘夷を命じるときは、大政を奉還して諸侯の列に下るべきであるという意見を披露しました。

春嶽はこの日も病を称して登城しなかったため、将軍家茂からの見舞いの使者として忠寛が越前藩邸を訪問しました。見舞いの口上を述べた後、別室に招かれた忠寛が、国是について、春嶽と同席の横井小楠に陳述した意見は以下に要約するとおり。

○元来、京都から重大事の沙汰のあるときは、いつも、後々はどのようにでもなるので一応は請けるようにと内諭があるそうだ。しかし表面の沙汰には書面があり、後日まで消滅しないが、内諭には書面がなく後日になって何の証拠にもならない。

○すでに先年、酒井若州(若狭守=忠義)が所司代勤務中、条約の件をおおせ出されたところ、例の内諭があったので、若州は内諭が無効となった事例を述べたところ、京都には関白・伝奏がおり、関東には大老・閣老がいて心得ている事なので、決して心配に及ばずと聞き入れられず、ついに沙汰を請けることになった。それが今回の別勅使派遣となったのではないか。すなわち当時の内諭は消滅して表面の書面が存在するのみであり、(今回破約攘夷を)容易く奉承すれば、酒井・井伊の轍を踏むことになろう。

○このような実例を勘案すれば、今回は、どこまでも攘夷は国家のために得策とはならないことを主張し、万一京都が聞き入れず攘夷断行を命じれば、そのときは断然政権を朝廷に奉還し、徳川家は神祖(家康)の旧領である駿河・遠州・三河の三州を貰い受けてし諸侯の列に下るべきである。もっとも、もし政権を奉還すれば天下がどうなるか予測できないが、徳川の美名は千年に伝わり、(内諭を信じて)轍を踏んで千年の笑いを招くより、どれだけ勝るかわからない>

小楠は忠寛の「卓見に感服」して、これより上の処置はないと答えたそうです。

<ヒロ>
慶応3年10月14日に徳川慶喜が土佐藩の建白に基づいて大政奉還を行ったことは有名ですが、実は、そのアイデアは5年前の文久2年にすでにあったのです。開国が朝廷に聞き入れられない場合は政権返上を覚悟すべきだという覚悟論は、これより先、すでに春嶽が慶喜に主張していました(こちら)。一翁の意見はそれをさらに発展させ、奉還後の徳川家の処遇まで具体的に提言するものでした。

小楠を感服させ、慶応3年には実現することになる大政奉還というアイデアは、当時の幕閣には一笑に付されたようです。春嶽が後年記した回想録「逸事史補」によると、一翁は将軍上洛の上の大政奉還を上策だと諌言したようですが、居並ぶ役人は大笑いし、とても出来ない相談だと言ったそうです。

しかし、小楠を顧問としている春嶽が感銘を受けたことは想像に難くありません。文久3年に(小楠抜きで)上京した春嶽が、事態の打開策として掲げたのが政権返上論でした。また、後日、前土佐藩主山内容堂も一翁の論に感服したといっています(こちら)。「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」ための開国論を説いていた後見職当時の慶喜の反応がどうなのか記録にみあたらないのが残念です(管理人が知らないだけ?)。

もっといろいろ書きたいのですが、出帳中で時間がありません。またいずれ〜。

参考:『続再夢紀事』一(2003.12.11)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:開国VS破約攘夷」「勅使優待問題」「大久保一翁「横井小楠」


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