名前 | 岡部長常(おかべ・ながつね) 駿河守 |
身分 | 旗本(1,300石) |
生没 | 文政8(1825)〜慶応2(1866)12月。享年42歳。 |
略歴 | 安政2年9月:長崎海軍伝習所に目付として赴任。前任は永井尚志・後任は木村介舟 安政4年12月〜文久元年11月:長崎奉行就任。この間、日蘭通商条約の締結交渉担当。また、製鉄所建設、踏み絵の廃止、英語伝習所創設、蘭医ポンペ・松本良順らの解剖、病院の設立、貧民医療などにも便宜を図る。(長崎時代の岡部のこと、いずれ調べたいです^^) 文久元年11月:外国奉行就任 文久2年6月〜文久3年12月:大目付就任(以後の詳細は下記の年表へ)。越前藩顧問横井小楠の論に感服し、将軍後見職一橋慶喜・政事総裁職松平春嶽主導の幕政改革に尽力。攘夷奉勅問題では開国論をとり、尊攘急進派からは奸吏だとみなされ、敵視される。 文久3年12月:作事奉行就任 元治元年11月:神奈川奉行就任 慶応元年閏5月:軍艦奉行 7月:清水小普請組支配就任。8月:辞職。 慶応2年:死去 |
評判 | 「日本中人における文明人」byポンペ |
年表(文久2年〜慶応2年)
(サイト更新時に岡部長常関連情報を追加していく予定です)
年 | 歳 | できごと |
文久2 (1862) |
38 |
◆6月−外国奉行から大目付に転任 *大目付は旗本最高の職位 ◆7/9【江】越前藩用人中根靱負、岡部を訪ねて松平春嶽のポストの「大老」を「政事総裁職」にと要請⇒同日、春嶽、政事総裁職就任) ◆8/24【江】登城中止の春嶽、岡部を呼び出し、生麦事件の処理について、重ねて、(1)久光を引き留めて犯人を差し出させること、(2)老中が上京して事情を説明し、そのまま京都警衛につくこと、の2点について評議するよう指示 ◆8/27【江】 横井小楠、岡部を訪ね、幕政改革論(将軍上洛と失政の陳謝、参勤交代廃止等の国是七論)を説く。感服した岡部は登城して小楠の説を後見職一橋慶喜&有司に披露。一同感服。参勤交代廃止は老中板倉が「宗祖の遺法」を理由に反対する、岡部と側用取次大久保一翁が説得して了解させる。慶喜、感銘を受け、横井を登用して政治改革顧問にしたいのと直書を春嶽に寄越す。 ◆8/28【江】側用取次大久保一翁、小楠に幕政改革に障害がなくなったと春嶽の登城再開を求める。小楠は、春嶽の登城停止は岡部に通告したので、再開は岡部から申入れるよう返答。 ◆8/29【江】春嶽、幕府の「私」政を去れという意見書(総裁職辞表)を岡部に提出 ◆8/30【江】生麦事件(4)英国側、老中板倉邸で犯人引渡しを要求。登城停止中の春嶽、岡部の説得で板倉邸に赴き、ついたての陰でやりとりをきく。 ◆閏8/1【江】老中板倉、岡部からきいた小楠の説に感服し、幕政改革断行を決意 ◆閏8/3【江】岡部、春嶽に登城再開を申し入れる ◆閏8/4【江】越前藩、岡部の要請を受け、春嶽の登城再開を決定 ◆閏8/15【江】慶喜・岡部、進献物廃止に関する老中らの因循に憤慨して登城中止 ◆9/24【江】中根靱負、大目付岡部長常に「攘夷」の意味を説く ◆9/25【江】政事総裁職松平春嶽・顧問の横井小楠は、後見職一橋慶喜を訪問し、攘夷決戦の覚悟を定めることを入説。大目付岡部(駿河守)・目付山口勘兵衛も同席 ◆9/26【江】攘夷奉勅に関する幕議。春嶽、長州藩に下った攘夷の沙汰を示して破約攘夷論(必戦の覚悟による条約破棄)を説く。岡部、これに反対。 ◆10/18【江】前土佐藩主山内容堂は、大目付岡部に攘夷奉勅を入説 ◆10/20【江】幕議は開国上奏から攘夷奉勅に一転。また勅使待遇改善も内決。容堂によれば、「拙者が大声を発せし為駿州(岡部長常)の辟易せしは随分面白かりしか廟堂の俄かに形勢を変ずるに至りたるは拙というべし。一橋も案外の無気力にていうにたらず」 ◆10/21【江】容堂、開国論の大目付岡部長常を面責 ◆10/23【江】大久保一翁・岡部長常・小栗忠順に「天誅」の風聞 ◆10/25【江】老中格小笠原長行、老中板倉に「君側の奸」大久保一翁・岡部長常の罷免と久世らの追罰を迫る ◆11/11【江】朝、登城した政事総裁職松平春嶽に、幕政参与の山内容堂が、薩摩藩高崎猪太郎(高崎五六)から内報のあった在府「壮士等」の老中板倉勝静暗殺を計画を告げました。春嶽は竹本隼人正を板倉に派遣して、明日の登城は控えるよう申し入れると同時に、病と称して登城停止中の慶喜(こちら)には大目付岡部長常を慶喜に派遣して暗殺計画を報せました。 ◆11/25【江】会津藩外島機兵衛、岡部を訪ね、京都町奉行永井尚志との共同意見として、慶喜以下重職の急西上を求める。 ◆11/26【江】岡部、登城して、外島から説明のあった京都の情勢及び慶喜以下重職の即時上京要請について報告 ◆12/8:【江】】幕府、岡部に将軍に先発・西上の命を受けた慶喜への随行を命じる |
文久3 (1863) |
39 | ◆1/16【京】将軍上洛延期運動(10)中根、慶喜に将軍上洛の延期を報告。岡部長常、中根に京都の厳しい情勢を語る/ ◆2/8【京】浪士対策(9)慶喜・容堂・岡部長常・沢勘七郎・武田耕雲斎、浪士対策を協議/ ◆2/9【京】浪士対策(10)慶喜・容堂・容保・岡部長常・杉浦正一郎・沢勘七郎ら、浪士対策を協議/ ◆2/27 【京】生麦事件賠償:岡部長常、宇和島藩に「外患の義事情申述べ候えども馬耳東(風)」と伝える/慶喜・春嶽、岡部長常・目付沢勘七郎に帰府・英国との交渉を命じる ◆3/16【京】将軍東帰(5)幕府、将軍の21日出立を内決 ◆3/17【京】将軍東帰(6)幕府の将軍東帰奏請/容保、将軍滞京の意見書を大目付岡部長常に ◆4/17【京】三条橋に、将軍徳川家茂を「天誅」対象とする張り紙。そのなかで板倉・岡部を奸吏と批判し、処罰を求める。 ◆4/22【京】後見職一橋慶喜、破約攘夷(横浜鎖港)のため、京を発して帰府の途に。大目付岡部長常、水戸藩家老武田耕雲斎ら随従。 ◆4/23【近江】生麦賠償(23)慶喜随従の岡部長常、刺客に襲われる。 *以後、「今日」の進行にあわせ、随時UPする予定です。 ◆12月−作事奉行に転任 |
元治1 (1864) |
40 | 11月:神奈川奉行就任 |
慶応元 (1865) |
41 | 閏5月:軍艦奉行 7月:清水小普請組支配就任。 8月:辞職 |
慶応2 (1866) |
42 | 12月:死去 |
参考:『旧幕府』、『明治維新人物辞典』、『再夢紀事・丁卯日記』、『続再夢紀事』
『徳川慶喜公伝』、『維新史料綱要』など