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文久2年10月22日(1862.12.13)
【江】攘夷奉勅:慶喜、攘夷に定見なしとして後見職の辞表

■破約攘夷奉勅VS開国奏上(慶喜の登城スト)
【江】文久2年10月22日、一橋慶喜は自分には攘夷に定見なしとして後見職の辞表を提出しました。幕府は驚き、老中板倉勝静・老中格小笠原長行がその夜、慶喜を訪問して、翻意を促しましたが慶喜は応じませんでした。

慶喜辞表の大意は以下のとおり。
・・・此度別勅使御請の儀については先般愚存(=開国論)を申上げたが、当今諸藩が皆攘夷に傾く折柄、一己の愚見をもって開国論を主張致しても、素より不才浅智であり、往々皇国の御不都合を生じては恐れ多い。

殊に、(この件は国是決定という)重大事件である故、衆志(=破約攘夷論)に従われるのが当然であり、(破約)攘夷御請について、自分が重ねて異議を唱えることはない。

しかし、攘夷でほぼ決定したといっても、自分には定見がなく、定見がなくして(後見職の)重任を務めることは非常に恐れ多いので、速やかに当職の罷免を願いたい。

<ヒロ>
積極開国の上奏を主唱していた慶喜は、前土佐藩主山内容堂の攘夷奉勅論を受け入れ、幕閣を説得して幕議を攘夷で一決させましたが、それは本意ではありませんでした。実際、幕府には朝廷が主張するような攘夷を実行する目算もなく、有司は来年将軍が上洛すればなんとでもなるだろうという「姑息の空想」を頼みとして、その場逃れのことを考えていました(と慶喜は思っていました)。

文久の幕政改革によって政事総裁職に就いた松平春嶽は13日に辞表を提出して(こちら)、いまだ登城を停止中でした。同じく将軍後見職に就いた一橋慶喜がこの日、辞表を提出したことで、幕議は後見職・総裁職が不在で進むという事態になりました。

参考:『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』、『徳川慶喜増捕版』(2003.12.13)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:開国VS破約攘夷

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