12月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
■攘夷奉勅問題(春嶽の登城スト) 【江】文久2年10月23日朝、旧態以前とした幕府に失望して登城停止中の総裁職待松平春嶽に対して、政治顧問である横井小楠は、登城再開を説得しました。春嶽は前向きな回答をしました。 二人のやりとりはこんな感じ↓
<ヒロ> 文久の幕政改革によって政事総裁職に就いた松平春嶽は13日に辞表を提出して(こちら)登城を停止中でした。勅使到着の際、朝廷の肝煎りでポストについた総裁職が辞表を提出して登城停止中というのは、幕府にとっては失体の一つになるのではないでしょうか。小楠のいう「失体」はこのことも含めているのではないかと思ったりします。なお、この時点で慶喜辞表の件は伝わっていなかったようです。 参考:『続再夢紀事』一(2003.12.21、12.22) ■攘夷奉勅問題(慶喜の登城スト) 【江】文久2年10月23日、幕府幹部は、前日に「攘夷に定見なし」として後見職辞表を提出した一橋慶喜(こちら)に翻意を促しました。町奉行小栗忠順・勘定奉行酒井忠行(但馬守)、目付神保正興(伯耆守)・山口信濃守が、尋ねたそうです(『徳川慶喜公伝』)。 また、老中水野忠精は政事総裁職松平春嶽に周旋を願う書簡を遣わしました(『続再夢紀事』)。 参考>『徳川慶喜公伝』2、『続再夢紀事』一(2003.12.21、12.22) ■大久保一翁の「大開国論」 【江】文久2年10月23日、前土佐藩主の山内容堂は、大久保忠寛(一翁)の「大開国論」に感服しました。 この日も登城した容堂は、忠寛と面会したところ、忠寛から「大開国論」を説かれ、「一々感服の外なかりし」だったそうです。越前藩邸を訪問した容堂は、春嶽に、「越中(忠寛)は当世第一等の人物なり・・・此節かかる人物を四五人得たらば天下の事は憂うるに足らず」とまで称賛しています。 <ヒロ> 大久保忠寛(一翁)の「大開国論」は、日本の国益のためとして開国を上奏するものですが、その上で、朝廷が攘夷断行を命じたときは徳川家が大政奉還・諸侯の列に下ることを主張するものでした(こちら)。慶応3年10月に土佐藩は大政奉還を藩論としてその建白書を提出することになりますが、このときの忠寛の「(大開国あるいは)大政奉還」論の延長線上にあるアイデアだともいってよいでしょう。文久2年の時点で忠寛の論に感服した容堂にとって、大政奉還論はなじみがあり、かつ受け入れやすい意見だったのもいうまでもないと思います。 実は、「大開国論」は御陵衛士頭取伊東甲子太郎の唱えるところでもありました。彼が、いったい、どこからこのアイデアに至ったのかは不明です。探求中・・・。(そもそも、このために、幕末政治をちまちま勉強しだしたわけなのです) 参考:『徳川慶喜公伝』2、『続再夢紀事』一(2003.12.21、12.22) 関連:テーマ別文久2■「国是決定:開国VS破約攘夷」「大久保一翁」 ■大久保忠寛(一翁)更迭 【江】文久2年10月23日夜、老中水野忠精は、春嶽宛書簡にて、大久保忠寛(一翁)が側用取次の辞職を願い出ているため、講武所奉行に転職させてはどうかと尋ねました。 大開国論を積極的に説いてまわっていた大久保がなぜ辞職を?その背景には暗殺の噂がありました。 実は、過日、京都町奉行として赴任した永井尚志が、勅使到着の上、大久保忠寛(側用取次)・岡部長常(大目付)・小栗忠順(町奉行)の開国論者を暗殺するとの風聞を内報していたそうです。三人は風聞に恐怖して進退を決めるのは本意ではないと引き続き出仕していましたが、勅使の到着が近々に迫ったため、再考し、一身の被害はともかく万一風聞のようなことが起れば幕府の大汚点なので辞職せざるを得ないと決意したそうです。このため、岡部は(辞職を願い出て)前22日から登城を停止し、忠寛はこの日、辞職を申し出たのだそうです。 春嶽は、<大久保のことは追って登城の上協議するので、しばらく転職を見合わせるように>との返答書を認めたのだそうです。 <ヒロ> 大久保忠寛・岡部長常らが自主的に辞職を決断したというより、老中からプレッシャーをかけられての辞職ではないかと思います(憶測です)。春嶽は「大開国論」の忠寛を非常に買っており、側用取次という君側の重職からはずして、転出させることに反対でした。 実は、忠寛の更迭に関しては、忠寛に不平を抱く幕府内「俗論家」の存在も影響しているのですが、それについて文久2年は11月3日、4日の「今日」で。 参考:『徳川慶喜公伝』2、『続再夢紀事』一(2003.12.21、12.22) 関連:■テーマ別文久2 「大久保一翁」 |
|