12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3  テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ

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慶応3年11月22日(1867年12月17日)
岩倉具視、中山忠能宛書簡に「会桑の罪いかん」と記す。
長州藩、藩内に出兵を令する

慶応3年11月22日(1867年12月17日)、岩倉具視は中山忠能に会津藩の動向を知らせました。それは、尾張前藩主徳川慶勝(容保の兄)が容保に会い、骨肉の情をもって辞職・帰国を説得するだろうということ、会津からまず尾張に兵を向けてはどうかという意見が会津藩士にはあったが幕権回復強硬派も鉾先がくじけるのではないか・・・という情報でした。

「此比尾老(尾張前藩主:慶勝)会肥(会津・肥後守:容保)招之事、弥(いよいよ)不日出会之由、是は骨肉の情を以って大に説、それより退役帰国の運び専務かと存じられ候、既に会(会津)より先(まず)尾(尾張)へ兵を向るなど会士(会津藩士)にて論する者も有之候ところ、大に鉾先くじけ候やに承候」

岩倉はさらに、
「大樹之所は大政返上云々理ありといえども会桑其罪云々いかん」(意訳:将軍は政権奉還等という理(道理)があるのでよいとしても、会津・桑名の罪などはどうおとしまえをつけさせるのか)、と大久保一蔵と対策を相談したことを記しています。

(「」内は適宜、ひらかなに変えています)

出所:『岩倉具視関係文書』『幕末政治と倒幕運動』引用箇所より孫引き

<ヒロ>
慶勝は、大政奉還後の10月22日に、容保に対して辞職を勧めていますが、会津藩はこれには従いませんでした。その後の会津藩強硬派の動きをみて、再び辞職・帰国を説得しようとしたようです。(実は、このあと、容保は帰国を願い出ますが、このときは慶喜にひきとめられています)

関連:慶応3年11月11日-尾張犬山藩家老、越前藩側用人に会津藩は東帰させるべきと語る

岩倉・大久保・・・武力討幕派の両名ですが、彼等も、慶喜は大政奉還したことでいわば免罪となったとし(大政奉還をしなかったら討幕をされていたという慶喜・春嶽らの認識は正しかったわけです)、幕権回復の強硬派でもある会津・桑名の「罪」を問題にしている・・・。この時点で、彼等が打倒対象として想定しているのは慶喜(幕府)ではなく、会桑・・・だったように思えますよね。

それにしても、岩倉具視関係文書・・・やっぱり、読まないと^^;。

(2001/12/19、2002/12/20)

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