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慶応3年11月23日(1867年12月18日)
-薩摩藩主島津茂久、率兵して入京(小松抜き)
-徳川慶勝、二条城で慶喜に対談。「疑念氷解」

慶応3年11月23日(1867年12月18日)、薩摩藩主島津茂久(忠義)が約3,000の藩士を連れて入京し、相国寺(今出川藩邸)に入りました。名目上は、大政奉還後に朝廷が出した諸大名に上京の朝命に応ずるものでしたが、その実は討幕挙兵をにらんだものであり、上京途上の18日には、三田尻で毛利長門と会談し、兵の部署について決めていました。長州藩の品川弥二郎・世良修蔵も同行し、相国寺に潜伏したそうです。

大政奉還の聴許を土佐藩後藤象二郎とともに迫り、公議政体派から信頼されていた小松は、脚病のため上京しませんでした。『徳川慶喜公伝』では、藩父の久光及び帯刀が上京しなかったことは、薩摩藩の激派にとって幸いであり、非討幕派にとっては不幸であった・・・としています。

<ヒロ>
率兵上京は、10月17日に京都を出発して帰国した小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)・大久保一蔵(利道)の伝えた討幕の密勅に応じるものだそうですが、実は、14日の大政奉還を評価した朝廷は、21日に、討幕の密勅の中止を命じる沙汰書を下していました。

「去十四日申達候條條、其後彼家祖巳来行来候国政を返上し、深以悔悟恐の趣申立候に付き、十四日の條條、暫見合、実行否可勘考、諒闇中、且生民之患に関係するに依り、深遠之思召を以て、再被仰出候事」(『岩倉公実記』)

薩摩藩への沙汰書は中山忠能から吉井幸輔に渡されました。忠能は、久光父子の一人が上京すれば、この沙汰を伝え、長州には薩摩より伝達せよと命じたそうです。

慶喜の大政奉還の決断を評価したのは倒幕派(倒幕と討幕の違いに注意)公卿だけではありませんでした。在京薩摩藩士の間にも、大政奉還で慶喜の「罪」は問えなくなったとする認識が生まれていました。大久保一蔵も「大政返上云々理有り」といい、伊地知正治は、献言書の中で王政復古後の政権に慶喜を中心的ポストに据えることを主張しています(『大久保利通関係文書』)。(関連:12月19日の「今日」)。

薩摩藩主が率兵入京したときの政局は、討幕派に不利な状況になっていたと言えると思います。

(小松は討幕なのか公議政体なのか・・・どっち???公議政体派に同意したけれど、勅が下ったので勅は尊重という感じ???薩摩に無知てすいません〜)

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同日、前尾張藩主徳川慶勝が二条城で慶喜と謁見し、前日の春嶽同様、「是迄の疑滞たちまち氷解」したそうです。(「丁卯日記」)。

関連:
慶応3年11月11日-尾張犬山藩家老、会津藩は東帰させるべきと語る
慶応3年11月12日-新選組の「暴論」を恐れ、越前・尾張藩の参内延期の沙汰という風聞

参考:『再夢紀事・丁卯日記』、『徳川慶喜公伝』、『維新史』、『幕末政治と倒幕運動』

(2002/12/20)

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