12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3  テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ

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慶応3年11月25日(1867年12月20日)
-土佐藩後藤象二郎、越前藩の同意を得て朝廷工作へ。
−長州兵、進発。

慶応3年11月25日(1867年12月20日)、土佐藩後藤象二郎(公議政体派)らは越前藩を訪ね、今後の計画について協議しました。後藤のポイントは以下の通り。
  1. (薩摩藩小松帯刀との申合せ(薩摩藩を公議政体論でまとめて藩主を上京させる)が成らなかった
  2. 一刻も早く上京している諸侯のみで公議政体の枠組を決める必要がある
  3. それには正親町三条実愛ら公卿に入説して朝廷工作をする必要がある
協議の結果、土佐藩と越前藩で分担して多数派工作をすることになりました。


1.【薩摩藩小松帯刀との申合せの蹉跌】

「今後の儀は、小松帯刀と深く申合せ候義これ有り、象二郎国許へ罷越、帯刀も帰国の上、国許同論(公議政体論)と相成、修理大夫(薩摩藩主島津茂久)様も御上京に相決候えば、帯刀は直様出帆、土州へ立寄・・・同船にて上京の契約に付き、国許に於いて、屈指相待居候處、帯刀は足痛にて旅行相成難に付き、湯治罷越、御跡(後)より罷上り候由に候、併せて帯刀の足痛、甚だ失望のみならず且は異敷、自然国許に於いて帯刀の説相立たぬ事と相成候へは、帯刀は恐れながら内府公(慶喜)を初め奉り、私共へも面目のなく、もっとも罷り出難き筋に候由」

関連:慶応3年11月23日:薩摩藩主島津茂久、率兵入京。

2.【上京諸侯だけによる公議政体確立】

「ついては一日も早く、御上京の各候だけ御会議相始めより、至公至忠の大本相立候へは、其上誰彼物敷寄立ての出来候ものにもこれなし、もし、物敷寄を出し候とて、立行ものにもこれなく、自然と公論ならては相適わぬ事と相成り候様に押寄せ度、夫(それ)も此度の御盛意(慶喜の政権返上の意思)奉戴、公明正大の同論藩、堂々と旗を立候へは、夫にて勝算は相定り候と申もの」

関連:慶応3年11月24日:薩摩藩吉井幸輔、公議による王政復古に言及。

3.【朝廷工作・同盟藩の協力】

「其上にて公卿方と申す中にも、正三卿(正親町三条実愛)は御格別候えは、此卿に熟く入説いたし、先つ(まず)上京諸侯を召され、意見御尋ねに相成、其御答えの御次第、御簾前(天皇の前)の御誓いに相成候はば、夫にて大本相定り申すべく候、夫より議事院等の事に相成、種々條目に亘り(わたり)、公議相立るべき儀と存じられ候由。あわせながら、公卿方と申すは、外より入説に同様の癖これあり、箇様の折柄、必定所々へ煽惑の説も入るべく候えば、其予防には同盟藩多勢の力を以て、正説を先入固結するに如く事これなく、一藩にても同論多き方、力も強く説も申し立つべし」

出所:「丁卯日記」(管理人が適宜、書き下し、当用漢字や平かなに変えています^^;)。

*コメントしたいのですが、時間ありません、いずれ〜〜〜。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』

2002/12/22

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