12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3  テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ

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慶応3年11月24日(1867年12月19日)
-薩摩藩吉井幸輔、慶喜への疑念はないと発言。
公議による王政復古を急ぐ必要性、伊東の暗殺についても。

慶応3年11月24日(1867年12月19日)、入京した薩摩藩主に小松帯刀が随行しなかったことについて、在京の老中板倉伊賀守(勝静)が越前藩に問い合わせました。越前藩では、事情を確かめるために、藩士青山小三郎を薩摩藩の吉井幸輔(友実)へ遣わせて尋ねさせました。吉井は、訪ねてきた青山に対し、小松は持病の足痛が発病して歩行も困難であるため、上京に随行したいと思ったが適わなかったのであり、真に病であると確言したそうです。

<ヒロ>
小松が上京しなかったことは、在京公議政体派にいささか動揺をもたらしたようです。本当に病で上京しなかったのか・・・そういう疑念もいだかれたようです。

***

吉井はこのとき、さらに、慶喜の決断・公議による王政復古、そして、なんと、伊東甲子太郎の暗殺についても発言しています。

【慶喜の決断・王政復古について】
如何にも上様においては疑い奉るべき様はこれなく、永井殿らも御同様の由に候えども、唯板倉候等には、矢張り久恋の心底これ有るやにも疑う者あり、修理大夫様にも、いづれに御相談もなされたく、兎角御手後れに相成らぬ様、来月十四五日頃迄には、大綱だけは御居りに相成らず候ては相適わず、いづれの道にも此度の機会を失う時は、土崩瓦解と焦思候」(「丁卯日記」)

<ヒロ>
この時期の薩摩藩といえば、武力討幕一直線とのイメージがあると思うのですが、吉井の言によれば、吉井を始めとする薩摩藩士の間では慶喜の大政奉還の決断は本物であると評価されていたようです。長州藩と討幕挙兵の部署まで決めて上京した茂久も、公議政体論に傾いているようにとれます。岩倉具視が中山忠能宛書簡で記した大久保一蔵との会話(「大樹政権返還云々理あり」)や伊地知の献言とも平仄があいますよね。ただし、吉井は公議による王政復古について楽観はしておらず、時機を失すれば全ては瓦解するとの認識を示しています。

【伊東甲子太郎について】
「追々諸侯御上京については、何卒も早く公議のお運び付き申さず候ては、遷延の内如何なる事変も計り難し。別て近来暴逆の徒横行、坂本龍馬を始不慮の事これあり、七條にて石川甲子太郎暗殺なども惜しむべき事にて、彼は頗る有志にて、先達の建白(こちら)などは、一々尤も至極同論の事ども」(口語訳:朝命により諸侯が上京してくるが、早く公議政体の見込みがつかねば、不測の事態が起るかもしれない。特に、最近、暴逆の徒が横行し、坂本龍馬暗殺を始めとして不慮の事件が相次いでいる。七条における伊東甲子太郎暗殺なども惜しむべきことである。彼は頗る有志であり、先だっての建白などは一々尤も至極で同論である)。(「丁卯日記」)

<ヒロ>
わたしは、この時期は、佐幕VS討幕ではなく、幕権回復派VS王政復古派、王政復古派のなかで公議政体派VS討幕派というパラダイムでみています。

伊東は討幕派のレッテルを貼られていると思うのですが、わたしは、伊東は王政復古派ではあったけれど(幕権回復派ではない)、討幕派ではなく公議政体派だった・・・と思っています。思っているというか・・・伊東の王政復古に関する建白(一和同心や公議を説いています)を読めば明らかで、討幕派だといわれているのが不思議な気がしますが^^;。吉井のこの発言からもそのことは裏付けられると思うんですよね^^。

吉井=薩摩=討幕派で、その吉井に「惜しい」「有志」「建白書もっとも」といわれたから伊東も討幕派というのは、短絡的だと思います。発言のコンテクストはそうじゃないですよね。それに、吉井は、この日の発言を見る限り、この時点では公議政体派寄りだし、発言の相手も公議政体派の越前藩使者ですから。

ただ、「石川」なんて誤記されているところから、伊東が公議政体派だったとしても、越前藩にはそれほど名が通っていないようですね^^;(「樫太郎」じゃなく「甲子太郎」とちゃんと書かれているあたりは、ある程度は知られていたのかなぁとも思ったりはしますが)。ま、坂本龍馬と並べてその死が惜しまれていますが、坂本ほどの大物でなかったことは言うまでもありません^^;。

また、伊東と吉井がどの程度の知り合いだったかどうかもよくわかりません。衛士らが薩摩藩邸に逃げ込むまでの、薩摩藩と衛士との密接な関係を示す薩摩側の史料ってないようなんですよね。『高台寺党の人びと』の著者、市居氏にお会いしたときも、「さがしても、吉井のこの発言くらいしかないからねえ」と、伊東(衛士)と薩摩との密な関係には否定的でいらっしゃいました。

ちなみに、衛士の阿部十郎は、坂本龍馬暗殺事件後、いつ自分たちも新選組にやられるかと身の危険を感じて薩摩藩邸(伏見藩邸のことだと思う)に匿ってくれないかと吉井らにかけあったそうですが、吉井は、「幣藩に於ても未だ嫌疑の晴れぬのだからして、どうも屋敷に匿うわけには行かぬ。何か実功を立った以上ならば兎に角宜しかろうと思う、助勢はするけれども、今日の所では藩邸に匿う訳に行かぬから」と言って、断ったといいます(阿部談『史談会速記録』)。それだけに「頗る有志」の死が惜しまれたんでしょうか・・・。

なお、この「嫌疑」は、通常、新選組スパイという意味にとられています。それもあるかもしれません。ですが、管理人は、伊東の穏健な王政復古策、徳川家に代って諸藩が実権を握ることを否定する公卿政権構想は、薩摩藩の討幕派とは相容れないものであり、それゆえに忌避されたのでは・・・と考え出しています(こちら)。もっといろいろ調べていきたいです。

*もっとコメントあるのですが、報告書締切前につき、時間ありません、いずれ〜〜〜。

関連:◆慶応3年11月18日:油小路事件(1)伊東、近藤妾宅へ呼び出される 11月18日:油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される 11月19日:油小路事件(3)油小路の戦い 11月19日:油小路事件(4):伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に11月20日篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/ 11月21日:篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流/ 11月24日薩摩藩吉井幸輔、伊東の暗殺についてコメント。
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参考:『再夢紀事・丁卯日記』、『史談会速記録』

2002/12/22

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