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元治1年11月24日(1864.12.22)
【京】この頃、守護職松平容保、自らの東下・将軍進発督促を決心し、一橋慶喜に相談するが、止められる。
【江】会津藩公用人小森久太郎、在京同役に将軍進発周旋が進まない様子、
「京都方」という見方は幕府のためにならないと申し入れたこと等を知らせる

☆京都のお天気:陰有微雪之気 (中山忠能日記)

>第一次幕長戦
■将軍進発問題
〇容保の東下運動
【京】元治元年11月24日、 肥後藩留守居役上田久兵衛は、二条関白から、会津藩では、松平容保が病身を押して東下して将軍進発を促すことに決し、禁裏守衛総督一橋慶喜に相談をしたという極秘情報を得ました。久兵衛は、容保の東下は、朝廷の御依頼・諸藩の仰望を失うことになる、と断固反対しました。(久兵衛によれば、慶喜も同じよう考え、東下をとめたとのことです。また、薩摩藩士海江田武次も、会津藩士から相談されて反対したようですこちら)。

<ヒロ>
この頃までには、将軍進発周旋のために東下していた公用人野村左兵衛が11月10日に江戸を発して帰京。また、容保の直書をもって東下中の小森久太郎からの11月14日付の書状(老中阿部正外が他の幕閣と「一つ穴の狐」で「懐中の虫」である可能性、あるいは「京都方」とみられて疎外されている可能性を報じるもの(こちら))も、京都についています。さらに、薩摩藩家老小松帯刀の「反復之計策」(朝幕の離間策)が会津藩にも伝わっていた可能性があります(こちら)。武田耕雲斎ら天狗党が京都をめざして西上しており、京都は厳戒態勢に入りつつありましたが、そんな中で、病身の容保自らが東下することを決心したのは、ぜひとも、将軍進発によって朝廷・幕府の融和を図りたいという思いがあったのではと思います。(絶対にあきらめない会津藩です・・・というより、会津藩にはこの方針しかないです)。

一方、このころ、江戸では、既に会津藩は「京都方」とみなされ、容保の直書をもって東下した小森も、いまだに老中(水野忠精・阿部正外)に面会できないでいました。(同じ頃、御三家の紀州藩家老も老中になかなか会えずに憤慨しているので、会津藩だけが疎外されているわけではないです)

参考:11月28日付上田久兵衛書簡『幕末京都の政局と朝廷』(2018/9/3)

〇江戸の事情@東下中の会津藩公用人
【江】元治元年11月24日、会津藩京都公用人・小森久太郎は、在京の同役に手紙を認め、水野老中の用人を通して、将軍進発の必要性を説くとともに、「京都方」という見方は(離間を助長し)却って幕府の「御不都合」を生じると述べたことなどを報じました。

小森は、老中に会おうとするのですが、多忙を理由に会ってもらえず、容保の直書への返答ももらえないでいました。

そうしたところ、ようやく、水野老中の用人浦賀を通して意見を述べるよういわれました。

(小森の言い分のかなりてきとう要約)
今回、御名(=容保)が直書で申し上げた勅使派遣は暫時見合せになった(が、しかし、この上御進発の日取りも発表せず、遅延ということになれば、一橋様、桑名様、御名様(=容保)の尽力ではどうしようもない事態になると、御一統様は至極心配している。勅使が下向しても、(幕府には)申し開きがあるうので構わない、というのであれば、それを伺いたい。あるいは、何日頃までには御進発を発表するので、それまでは勅使の沙汰を見合わせてほしいというのであれば、そこをもって、尽力するよう御一統様に申し上げたい。あまり余裕をもたれているうちに、打ち手の方が取り掛かり、吉川の見込み通り、手を束ねて降伏を願うことになれば、最早御追討・御進発の名目もなくなり、御進発すべき期節を失うのではないか。禁闕に向かってかくまで乱暴した朝敵を、ただ、そのように傍観されるのは、臣子の情実においていかがなものか。今、御進発になれば、御尊奉の筋も立ち、御武威を更に張り、諸藩の気請けもよく、人気も引き立つ、「大機会」である。・・・(略)。

今回の勅使の御沙汰は、これらのことを厚く含まれて、「御深切」より出たもので、関東を悪しかれとての御沙汰ではない。万一(違背すれば)、御信切の深いほど御悪しみも深くなるのは人情であるので、非常に重要なときだと、御一統様は苦心されている。・・・(幕府に)勅使下向時に、程よくお断りになる御妙策があっても、後日になって、また、(諸藩に)激論が沸騰しかねない。諸藩には激徒が多くいる様子であり、今は時勢で鎮まっているが、その中には隙を伺っている者も多分にいるので、一昨年、昨年のような世になるのは紙一重である。そうなれば、(激徒が勅使に従わない幕府を)違勅と主張するのは必定であり、そこまで至っては、御名(容保)の尽力はとても及ばない。もともと当職を命じられて京都に派遣されたのも、上様の「御手長」として、御尊奉や関東の都合を整えるためだったが、京都の事情をどれだけ申上げても応じてもらえないのでは、彼地にある詮がなく、いかんとも尽力仕りかねる(「尤当職被仰付京都表へ被遣候も乍恐上様御手長仕御尊奉筋を始関東之御都合相整候為之義御座候へ共、京地御模様何程申上候而も右に御応し不被下候而は彼地ニ罷在候栓も無之、如何共尽力可仕様無御座候」)。

そのうえ、自然、「京都方」などと申す名目を唱えだし、「離間説」を申し触らすようになるのは目前である。すでに、最近・・・(幕府内には、会津藩を)「京都方」などと申す者もいると聞く。そのような振合になっては、(会津藩が)彼地にある「御為筋」はさしおき、却って「御不都合」を生じることになると、非常に苦心をしている。

これらの次第をよくお考えの上、御返答をいただきたい。

浦賀は自分では即答できないと述べたので、次の日、小森が再び会いにいったところ、やはり進発に関して明確な回答はもらえませんでした。

また、老中松前崇広の率兵西上については、「甲州路よりお上りの由、武田耕雲斎、甲州へ越し候風聞これあり候につき、御見廻りなされ候由、愚察には、なるたけ手間取り、芸州辺へ御出でなされ候ころは、もはや長州辺は降参に成りおり候えば、御進発は御見合せの中心なさるべき策略か」と記しています。(本当の目的は、一橋慶喜の江戸召喚なのですが、それについては気づいていなかったようです)。

参考:11月24日付(野村左兵衛・手代木直右衛門・外島機兵衛等宛)小森久太郎書簡『京都守護職始末』2p127-130(2018/9/8)
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