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☆京都のお天気:陰有微雪之気 (中山忠能日記) >第一次幕長戦 ■将軍進発問題 〇容保の東下運動 【京】元治元年11月24日、 肥後藩留守居役上田久兵衛は、二条関白から、会津藩では、松平容保が病身を押して東下して将軍進発を促すことに決し、禁裏守衛総督一橋慶喜に相談をしたという極秘情報を得ました。久兵衛は、容保の東下は、朝廷の御依頼・諸藩の仰望を失うことになる、と断固反対しました。(久兵衛によれば、慶喜も同じよう考え、東下をとめたとのことです。また、薩摩藩士海江田武次も、会津藩士から相談されて反対したようですこちら)。 <ヒロ> この頃までには、将軍進発周旋のために東下していた公用人野村左兵衛が11月10日に江戸を発して帰京。また、容保の直書をもって東下中の小森久太郎からの11月14日付の書状(老中阿部正外が他の幕閣と「一つ穴の狐」で「懐中の虫」である可能性、あるいは「京都方」とみられて疎外されている可能性を報じるもの(こちら))も、京都についています。さらに、薩摩藩家老小松帯刀の「反復之計策」(朝幕の離間策)が会津藩にも伝わっていた可能性があります(こちら)。武田耕雲斎ら天狗党が京都をめざして西上しており、京都は厳戒態勢に入りつつありましたが、そんな中で、病身の容保自らが東下することを決心したのは、ぜひとも、将軍進発によって朝廷・幕府の融和を図りたいという思いがあったのではと思います。(絶対にあきらめない会津藩です・・・というより、会津藩にはこの方針しかないです)。 一方、このころ、江戸では、既に会津藩は「京都方」とみなされ、容保の直書をもって東下した小森も、いまだに老中(水野忠精・阿部正外)に面会できないでいました。(同じ頃、御三家の紀州藩家老も老中になかなか会えずに憤慨しているので、会津藩だけが疎外されているわけではないです) 参考:11月28日付上田久兵衛書簡『幕末京都の政局と朝廷』(2018/9/3) 〇江戸の事情@東下中の会津藩公用人 【江】元治元年11月24日、会津藩京都公用人・小森久太郎は、在京の同役に手紙を認め、水野老中の用人を通して、将軍進発の必要性を説くとともに、「京都方」という見方は(離間を助長し)却って幕府の「御不都合」を生じると述べたことなどを報じました。 小森は、老中に会おうとするのですが、多忙を理由に会ってもらえず、容保の直書への返答ももらえないでいました。 そうしたところ、ようやく、水野老中の用人浦賀を通して意見を述べるよういわれました。 (小森の言い分のかなりてきとう要約)
浦賀は自分では即答できないと述べたので、次の日、小森が再び会いにいったところ、やはり進発に関して明確な回答はもらえませんでした。 また、老中松前崇広の率兵西上については、「甲州路よりお上りの由、武田耕雲斎、甲州へ越し候風聞これあり候につき、御見廻りなされ候由、愚察には、なるたけ手間取り、芸州辺へ御出でなされ候ころは、もはや長州辺は降参に成りおり候えば、御進発は御見合せの中心なさるべき策略か」と記しています。(本当の目的は、一橋慶喜の江戸召喚なのですが、それについては気づいていなかったようです)。 参考:11月24日付(野村左兵衛・手代木直右衛門・外島機兵衛等宛)小森久太郎書簡『京都守護職始末』2p127-130(2018/9/8) 関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦(元治1) 関連:■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ |
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