12月の「今日」 幕末日誌文久2  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年11月7日(1862.12.27)
【江】彦根藩士加藤吉大夫の自刃
【江】因幡鳥取藩主池田慶徳、松平春嶽に朝旨を伝宣

■幕政改革・朝廷尊崇の朝旨
【京】文久2年11月7日、国事周旋の朝命を受けて5日に出府した因幡鳥取藩主池田慶徳(相模守)は、書面をもって、松平春嶽に、内旨を伝達しました

要点は以下の通り。
  • 一橋殿正道の中興に御改正之有る事
  • 尾張殿水戸殿家来正邪の儀御申入れの事
  • 勅使下向候はば三家三卿大小名等 天朝御機嫌伺い(に)馳走所に参り候様
  • 登城の登の字を改めたき事
  • 御暇と申す儀止められるべき事
  • 勅使(が)後見・総裁・閣老・月番等(へ)廻礼の儀、関東より御辞退の事
  • 関白職以下(の)任職(を)伝奏に至る迄御相談(することを)関東より御辞退(し)、職任後御沙汰仰せ下され候事
  • 勅諚之あり候赦令の儀、速やかに行われ候様これありたき事
  • 六門外(の警備は)彦藩・小浜藩番士相止められ、会藩へ命ぜられたき事
  • 勅使御取扱い振りの儀、過日会藩へ書き取りを以て申入れ候儀、行われ候様、之有りたき事。
慶徳は慶喜の異母兄で、11月5日に攘夷周旋のため出府してきました。同日、春嶽は慶徳に、慶喜が幕習を脱却するための尽力を要請していました(こちら)

<ヒロ>
御所六門警備担当の彦根(井伊直弼の藩)・小浜(元所司代酒井忠積の藩)を会津藩に変えるようにという朝旨が興味深いです。朝廷の会津藩への好意がうかがい知れると思います。

参考:『続再夢紀事』一(2003.12.27)

■彦根藩士の抗議の自刃
【江】文久2年11月7日(1862.12.27)朝、国許を出奔してきた彦根藩士加藤吉大夫が、老中井上正直邸で自刃しました。閏8月20日に彦根藩が京都守護を解かれ、領地を削減されたことに抗議するものでした。(こちら)

『続再夢紀事』によれば、加藤は玄関で封書を出し、取次ぎの家士が封書を奥に持て行った後に切腹したのだそうです。また、『七年史』によれば、その懐中に辞世が残されていました。

「井伊藩加藤吉太夫 三十六歳
痛哭三年怨有余、君臣大義果如何、一刀是筆血是墨、為寫公家寃白書、

寝てすます 起ては猶も すまぬ世は 死より外の 道無かりけり」


『明治維新人名事典』によれば、加藤は足軽で、藩老岡本半介の了解のもとに彦根を出奔し、井上邸に赴いたのだそうです。『続再夢紀事』の嘆願書の日付は10月になっており、彦根を出奔するときに書かれたのだろうということが推測できます。ところで、『続再夢紀事』・『七年史』では、いずれも自刃死したかのように書かれているのですが、井上家家臣に制止されて死には至らなかったそうで、その後、国元附士となったそうです(『明治維新人名事典』もときどき間違いがあるので、どちらが正しいのか管理人にはよくわかりませんが・・・)。また、嘆願書の署名は加藤吉太夫と岡村吉之丞の2人だったそうですが(『続再夢紀事』にはなぜか加藤の署名だけが載っています)、岡村吉之丞は架空の人物で、実は「村半介」「外省吾」「河上太郎」「北川徳之丞」を指すのだそうです。

<ヒロ>
『続再夢紀事』収録の吉太夫の嘆願書を読んでいて、その切々と綴られた文章に心をうたれました。書き下しに挑戦しましたのでよかったらどうぞ。桜田門外の変以後、彦根藩士の忍び難きを忍んできた心情、彦根藩の内情などもわかって興味深いと思います(「私的資料集」「【彦根】:自刃した彦根藩士加藤吉太夫の嘆願書」)

参考:『続再夢紀事』一、『七年史』、『明治維新人名事典』(2003.12.27)
関連:■テーマ別文久2「違勅条約&安政の大獄関係者の大赦と処罰」■開国開城「戊午の密勅と安政の大獄」 「勅書返納問題と桜田門外の変

文久2年11月7日(1862.12.27)、軍艦奉行並勝海舟は、大小目付に

<兵制改革は、可能だとはいえ、必ず実行されないだろう。自分が意見を言わないのは実行されないのを知っているからである。今は天下累卵の時であり、議論よりは実着遵行して一歩一歩進むしかない。一歩良途に向えば、実地一歩の益があるのに、今や良途は一歩を退き、良説議論は遥かに数歩進んでいる。これでは実着は成功しないだろう。天下の形勢を詳らかにし、百事一の


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