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文久2年11月5日(1862.12.25)
【江】松平春嶽、因幡鳥取藩主池田慶徳に
一橋慶喜が幕習を脱するための尽力を依頼

【江】文久2年11月5日、因幡鳥取藩主池田慶徳(前水戸藩主徳川斉昭5男。一橋慶喜の兄)が、攘夷周旋の内旨(10月25日)により、出府しました。政事総裁職松平春嶽は、慶徳に慶喜が幕習を脱するための尽力を要請しました。

この日、慶徳は政事総裁職松平春嶽を訪ねて京都の事情を語りました。これに対し、春嶽は関東の事情を説明したのですが、その中で、最近の廟堂では土佐候・会津候及び自分は同論だが、「橋公は弥(いよいよ)幕府の旧習に泥まるる所ありし」ことを伝えました。その上で、慶徳と慶喜は近親であるので、「此際橋公の全く幕習を脱せらるる事に御尽力あらまほし」と依頼したところ、慶徳は大いに同意して尽力を約束したそうです。

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春嶽の持論は幕府が「私」を去ることで(こちら)、幕政参与として中央政局に復帰(こちら)してから、度々これを説いてきました。だからこそ、9月30日、慶喜の幕府をすでになきものとみる開国論(大開国論)には、感服したのです(こちら)。ところが、10月8日、開国上奏には政権奉還覚悟で臨むことを説いた春嶽に対して、慶喜は明確には答えませんでした(こちら)。さらに、11日には、京都守護職として赴任予定の松平容保が建議した勅使優待について、慶喜は優待自体は可だが京都の要請によって改正することは幕府の対面上よくないという意見を表明しました(こちら)。春嶽は、このあたりから、慶喜の「幕私を去る」覚悟を疑いだしたのではないかと思います。その後、政権奉還覚悟の大開国論を主唱し、春嶽どころか容堂まで感服させた大久保忠寛の更迭問題をめぐって、慶喜への不信感は拭い去れぬものにまでなったのではと思います。

ここで興味深いのが、春嶽が容堂だけでなく、容保も「同論」だと述べているところです。表面的には朝廷重視で一致していたとは思いますが、春嶽と容堂の大開国論を容保が支持していたようにも思えないのですが。(もし、容保が大開国論支持なら、大政奉還後、公議政体派になっていたと思うんですよね)。ここは、やはり、表面的な同論を意味するのでしょうね・・・?

斉昭の息子たちのうち、五男の鳥取藩主池田慶徳と九男の岡山藩主池田茂政は、この後、しばしば「今日」にも登場し、父親の烈公斉昭譲りの尊攘派として活躍しますので、乞ご期待!

9代水戸藩主徳川斉昭の息子たち
長男 徳川慶篤(よしあつ) 10代水戸藩主
五男 池田慶徳(よしのり) 因幡鳥取藩主
七男 徳川慶喜(よしのぶ) 15代将軍
八男 松平直候(なおよし) 川越藩主
九男 池田茂政(もちまさ) 備前岡山藩主
十男 松平武聡(たけあきら) 浜田藩主
十一男 喜連川縄氏(きつらがわ・ただうじ 喜連川藩主
十四男 松平昭訓(あきくに) (京都で死去)
十六男 松平忠和(ただかず) 島原藩主
十七男 土屋挙直(しげなお) 土浦藩主
十八男 徳川昭武(あきたけ) 11代水戸藩主
十九男 松平喜徳(のぶのり) 会津藩主
二十二男 松平頼之(よりゆき) 守山藩主

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2003.12.26
関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■テーマ別文久2「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏

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