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元治1年12月2日(1864.12.30)
 【京】薩摩藩討幕の意があり、内大臣近衛忠房が同意するとの説、肥後・土佐藩が薩摩藩を疑っているとの説、廷臣間に行われる。
【京】天狗西上:所司代松平定敬、諸藩に京都出兵を命じ、又在京諸藩兵をして洛中・洛外を警戒させる。

◆12/1【京】天狗西上:京護職松平容保・所司代松平定敬に命じ、慶喜の出陣中京都を戒厳し、且少数の藩兵を慶喜に随従させる。又水戸藩主徳川慶篤弟松平昭徳に、出陣して慶喜の指揮を受けさせる。

☆京都のお天気:晴(嵯峨実愛日記)
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>薩摩藩への嫌疑
【京】元治元年12月2日(12.30)、 朝廷内で、薩摩藩に討幕の意があり、内大臣近衛忠房が同意しているとの噂、肥後藩・土佐藩が薩摩藩を疑っているとの噂が流れました。

正親町三条実愛の日記の12月2日条には「前殿下(=前関白)申承」として「薩討幕内公(=内大臣近衛忠房)同意」、「肥後・土藩等薩疑」と記されています。

なお、正親町三条実愛の日記の12月10日条には「大島裏表」(=大島吉之助=西郷隆盛に裏表がある)と記されています。

<ヒロ>
11月17日には、中川宮が肥後藩留守居役上田久兵衛に、薩摩藩家老小松帯刀に「反復(覆)の計策」があると相談していましたし、この頃には、征長総督徳川慶勝の和議論の裏には西郷吉之助がいることも知られていました(こちら)

薩摩藩と近衛家がズブズブなのは誰もが知っていることですが、薩摩藩の長州恭順周旋については近衛家に仕えていた藤井良節が仲介していますし(9/24)、薩摩藩が吉川家に接触するにあたって、近衛家のバックアップがあることをアピールしていました(9/30)。近衛家も直接、萩に密使を送っていました(11/2)。そのへんのところを何か感づかれたのかも・・・。

西郷にまんまとつけこまれてしまった総督府・尾張藩に比べて、朝廷や在京の皆さんは薩摩藩に裏の意図があることを見抜いています。 この頃、在京薩摩藩と近衛家が討幕を語らっていたかどうかはよくわかりませんが、小松帯刀が、一橋慶喜に諸藩の支援を受けて朝命を奉じた政変を起こすようささやいたりと(こちら)、少なくとも薩摩藩には念頭にはあったみたいですので、まったく見当違いというわけではないですよね。

肥後藩はおなじみ留守居役の上田久兵衛、土佐藩は用人の森下又平(久兵衛と同説らしいです)あたりが中心でしょうか。

*実愛がこの噂をきいた「前殿下」ですが、近衛忠煕は忠房の父親で一味(失礼)ですし、鷹司輔煕は禁門の変後に参朝停止で、九条尚忠も謹慎中なので、「殿下」(二条関白)なのかも?

参考:「嵯峨実愛日記」(綱要DB 12月2日条No85 No86)(2018/9/9)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦(元治1)

>天狗西上
【京】元治元年12月2日(12.30)、 所司代松平定敬は、天狗党の西上に対応するため、諸藩に京都出兵を命じ、また在京諸藩兵に洛中・洛外の警戒を命じました。

これは、前日に、朝廷から、禁裏守衛総督一橋慶喜の出陣中、京都の警戒を強めるよう命じられたからだと思います。

関連:テーマ別元治1■水戸藩/天狗諸生争乱

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