2月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 開国開城  HP内検索 HPトップ

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文久4年1月7日(1864年2月14日)

【京】島津久光、朝廷に対し、将軍家茂に「至誠の綸言」と
天皇の非を認める「宸翰」下賜することを建言。
宸翰の草稿も提出(実際に下された宸翰とほぼ同文)

【京】文久3年1月7日(1864年2月14日)、薩摩藩国父島津久光は、朝廷に対し、近くに迫る将軍家茂の上洛の際には、諸大名とともに将軍を玉座の前に召しだし、「至誠の綸言を以て諭告」し、さらに「宸翰を以て己の罪するの詔を下」すよう求める建白書を呈しました。そうすれば、「衆心感佩欣戴して、天下挽回の道を開く」ことができるだろうというのです(建白書はこちら)。別途、宸翰の草稿も提出しました。

なお、この日の久光の日記にも、中川宮・近衛前関白を訪問し、将軍上洛の際には、「玉座の下に召させられ、御丁寧御告諭の上 宸翰御下け相成候様」との趣旨のことを「極密」に具申したこと、この際、宸翰の草稿も提出したことが書かれています。(草稿はに採録されています)。

『玉里島津家史料』三採録の宸翰の内容は以下に要約するとおり。

(1)国内外の危機的状況は、「汝(家茂)の罪」ではなく、「朕が不徳」のせいである。

(2)汝は朕の赤子であり、朕は汝を子のごとく愛している。汝も朕を父のごとく親しめ(「汝は朕が赤子、朕汝を愛すること如子、汝朕を親むこと父の如くせよ」)。その親睦の厚い薄いは「天下挽回の成否」を左右する重大事である。

(3)汝は「征夷府の職掌」を尽して、天下人心の希望に答えよ。「醜夷の征服」は「国家の大事」だが、「無謀の征夷」は朕の「好」むところではない。(征夷のための)「策略を議して」、朕に奏上せよ。それに基づき、「一定不抜の国是を定」めよう。

(4)「中興の大業」をなすには人を得ることが必要だが、松平容保、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂らは「忠質純厚思慮宏遠」であり、「国家の枢機」を任せるに足る人物である。朕は彼らを子のごとく愛している。汝も彼らと親しみ、ともに計って「衰運を挽回」せよ。


<ヒロ>
建白書中にある「己の罪」=孝明天皇自身の罪という意味です。現在の情勢を招いたのは天皇自身のせいである(将軍家茂のせいではない)と認める詔を出せというのです。大胆ですよね。でも、それくらいしないと、情勢が収まらないと久光/在京の久光側近はみていたのです。あまりに大胆な内容なので、久光自身が直接中川宮らに建白書の趣意(宸翰草稿も含め)を説明する必要があったのではと思います

また、国政に関る建言だというのに、この一件は他の参豫諸侯には内密だったということも興味深いと思います。慶喜とは隔意があるとはいえ、これまでいろいろ相談してきた春嶽にもナイショでした。万一このことが漏れたときに政局が混乱することを懸念したのか、それとも後ろ暗いところがあるのか・・・

少し先回りをしますと、久光のこの建言は将軍家茂が入京して参内した1月21日(と27日)に実現します。21日に孝明天皇が家茂に下した宸翰の文言は、この日、久光が提出した草稿とほぼ同文です(こちら)。

参考:『玉里島津家史料』ニp752、同三p110、『島津久光公実紀』、『幕末政治と薩摩藩』(2007.12.17)

【京】文久3年1月7日(1864年2月14日)、朝廷は前土佐藩主山内容堂の参豫辞任を却下しました。

参考:『維新史料綱要』 五(2007.12.17)

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「朝議参豫の動き」 

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