2月の「幕末京都」 幕末日誌文久4/元治1 開国開城 HP内検索 HPトップ
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■朝議参豫の動き 【京】文久4年1月5日(1864年2月12日)、この日は、参豫諸侯の朝議への参加が始まる予定であり、慶喜・容保・春嶽・宗城が参内しましたが、書付による数条の下問のみに終わりました。 また、朝廷側は中川宮・関白二条斉敬・近衛前関白父子・伝奏・議奏だけで、天皇の出座はなく、御前会議ではありませんでした。 容堂は欠席していました。(容堂は朝議のためには一度も参内せぬまま帰藩することになります) <ヒロ> 薩摩藩小松帯刀の1月2日の報告によれば、参豫の「勤務方」は、朝廷の「衆義」により、近衛前関白の主張する御前会議への参加に決まったとのことでしたが、この日の形態は、中川宮の提案に近いものでした(こちら)。朝廷内部で何かかけひきがあったのかどうか・・・。最初の朝議だったのに、参豫諸侯も肩透かしの感じを受けたのではないでしょうか。 この日の下問の内容は記録に残っていないようですが、どうやら朝廷が検討を重ねた結果のものではなかったようです。同月8日に、久光が春嶽に語ったところによると、下問の趣意を尋ねた久光に対して、近衛前関白は、<下問の書面はとくと詮議した上で下付するべきだったが、そういう事はせずに下付したものなので、実は不都合であり、参豫が参内の際には沙汰なし(廃案)にしたい>と言ったそうです。朝廷側の準備が整っていなかったことがうかがわれる気がしますよね? 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「朝議参豫の動き」 ■越前藩日誌文久3■薩摩藩日誌文久3 ■徳川慶喜日誌文久3 参考:『続再夢紀事』ニp330(2007.12.15) |
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